明けても暮れても新型インフルエンザ騒動。世界的パンデミックや国内蔓延は心配だが、この際、もっと関心を持たねばならないのは、医系技官の専門能力のレベルである。
日本では27万人が医師免許を持っているが、全員が直に患者と向かい合って病気の治療に当たっているわけではない。
厚労省には医系技官と呼ばれる600人の医師のエリート官僚が在籍し、主に、医療行政の制度設計と33兆円にのぼる年間医療費の分配に専門能力を発揮している—ことになっている。彼らのさじ加減一つで、最終的には国民の健康が左右される。
この時期に、その防疫を含めた医療制度設計の当事者である医系技官を告発し、完膚なきまでに批判する本が出版され、とりわけ医療の業界関係者の関心を集めている。
といっても、出版は新型インフルエンザ騒動が始まる直前の3月末日のことで、いわゆる際物では決してない。結果的に、新型インフルエンザの発生が世界的な大事件になる今日を予測したような絶好のタイミングの刊行だった。
『厚生労働省崩壊』(講談社)。著者は木村盛世。現役の医系技官、厚労省キャリア官僚で、防疫の専門官である。
筑波大学医学部卒業、研修医時代に結婚・離婚、シングルマザーとなるが、まだ首の据わらない双子の乳飲み子を連れて、米国の大学に留学。
公衆衛生学修士号を取得、いま話題になっている米国疾病予防センター(CDC)のコーディネータを経て、帰国。内科医として患者を診る経験を積んだ後、疫学研究者として仕事をしてから、医系技官として入省した異色の経歴を持つ。
厚労省で与えられたのは「統計情報部訓令室長」というポスト(課長と課長補佐の間)だったが、ことごとく上司と意見が合わず、衝突。いじめに遭い、挙句、西日本のドクター1人、看護婦1人というある検疫所にとばされる。<「出る杭は打たれる」の10年間だった>と帰国後を回顧している。
普通、医系技官は大学を卒業して入省し、入省後、2年間の臨床実習を行ってドクターとして働くことになる。あとはOJT(オン・ジョブ・トレーニング)という形で仕事を覚えていくことになるのだが、この程度の経験では、医療の現場も知らず、日進月歩の医学の動向からも遠くなり、
<実際、現在の医系技官は文学部を出た事務官と何の違いもなくなっています>。<運転免許は持っているけど運転したことのないペーパー・ドライバーと同じように、医学の、公衆衛生の専門家という肩書きからはあまりにも隔たりのある集団と化してしまう>と組織の恥部を歯に衣着せることなく、著書は腑分けしてみせる。
産経新聞5月10日「主張」欄で、<政府のガイドラインがすでに出来ていることは心強い>と賞賛の言葉を贈っている。そのガイドラインは、A4で69枚の膨大なものだが、要は、「水際は国の責任で、そして、万が一すり抜けて旅行者が国内に入ってしまってから発症したら、地方自治体が所管する保健所を中心に『後はよろしく』」、と地方に丸投げしている。
その結果、騒動の初日から大臣と横浜市長が責任を擦り付け合う醜態をテレビで演じ、発熱外来受け入れを求められた病院では、一般の救急患者を断る事態も起きている。そうでなくとも日常的に医師不足の状態の病院で一般の患者診療にも影響を及ぼしかねない。「心強い」などと能天気なことを言っている場合ではないのである。
厚労省はなぜこんなに検疫にばかり力を入れるのか。国内の医療機関の体制整備にお金や人手を振り向けようとしないのか。
木村氏はこういう。
<それは「検疫法」では、検疫は厚労省が公権力を行使して、直接行うことになっているからです。ところが、もし1例でも国内で発生すれば、それ以降は現場の医療機関(地方自治体)の問題となり、厚労省の直接的な仕事ではなくなります。
厚労省に限らず、役人の行動原理は責任回避が大きなウェイトを占めますから、国内の医療機関の体制整備より「検疫の実績」を重視するのは十分に理解可能です。それが、いくら医学的には間違いで、国民の健康を損ねる危険性が高くてもです>。
ここでいう「公権力」の実態は、前述した専門能力レベルの医系技官だ。彼らが、机上で医師の定員を決め、診療単価を提案し、制度設計をし、33兆円にのぼる医療費をどう配分するか、ガイドラインをどう作文するかなど、国民の健康と生命を左右する重要な政策を担っているというのである。
「幽霊の正体見たり—」である。
木村氏の専門は「天然痘テロ対策」である。生物兵器による危機に対して日本がいかに無防備であるか。「国防」というとすぐ、やれ核だイージス艦だという議論になるが、国内の防疫対策こそが緊急の国防である、と発想の転換を迫っている。
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