<天安門事件、米政府は当初から全容把握 秘密文書で判明
【ワシントン=古森義久】4日は1989年の天安門事件から20周年となるが、米国政府が事件当初からその全容を把握していたことを証する秘密文書がこのほど解禁され、内容が明らかとなった。
文書は北京の米国大使館員の目撃証言として、天安門地区での中国政府の行動を事件直後から明確に「虐殺」と特徴づけていた点などが注目される。
この文書は当時の先代ブッシュ政権の中国駐在大使ジェームズ・リリー氏から1989年6月4日付で米国の国務長官や国家安全保障会議あてに打電された。
北京の米国大使館からの秘密公電の文書は「6月3、4日に天安門周辺で起きた出来事の目撃証言」とされ、銃撃と死傷のほとんどが起きた長安街大通りの状況を明確にすることが目的とされていた。
天安門事件は現在ではその全体がわかっているが、当初は中国政府が民主活動家の殺害や虐殺をすべて否定したため、ベールに包まれた部分が大きかった。
しかし文書は、当時の北京の米国大使館政治部の中国語が堪能な館員が天安門広場内外に6月3日夜から4日朝まで密着し動き回って、人民解放軍部隊による民主活動家らへの銃撃の一部始終を実際に目撃していたことを明らかにした。
目撃した報告者はとくに長安街での2度にわたる軍による銃撃を「大虐殺」あるいは「2回の虐殺」と特徴づけ、流血の惨事はすべて人民解放軍による非武装の学生や一般民衆、民主主義活動家の一方的な殺害行為だと総括している。目撃証言は同じ6月4日に公電としてまとめられ、リリー大使の名により秘密扱いで本国に打電された。
文書は人民解放軍の将兵が腹ばいでライフル銃の狙いを定めて民主活動家たちを狙撃したことや、機関銃を乱射して抗議デモへの一般参加者までを撃ったことを具体的に伝え、しかもその銃撃で抗議デモ側に次々に死傷者が出た状況を生々しく報告していた。
米国政府がこの公電を長年、秘密扱いにしてきたのは、事件の解釈をめぐって主張の対立する中国政府に実情把握の程度や目撃証言による情報収集の方法を知らせないための配慮からだったとみられる。
【ワシントン=古森義久】北京の米国大使から本国政府へ送られた天安門事件についての最初の秘密報告の概要は以下の通り。
◇
6月4日午前1時、北新華街の片隅でも1・6キロも離れた民族飯店周辺から初めての銃声が聞こえてきた。西長安街ではバスやトラックが転覆、放火されて、オレンジ色の炎が道路沿いに広がった。
銃声がさらに大きくなり、人民解放軍の装甲車のヘッドライトが東に向けて動くにつれ、群集の間の怒りが高まった。年配の女性が「なぜ中国人が中国人を撃つのか」と叫んだ。若い男が「われわれは中国人だが、彼らは違う」と声をあげ、中南海を指さして「彼らは悪者なのだ」と叫んだ。
1時10分。群集の後方から腹に響く音が聞こえてきた。炎に包まれた装甲車が疾走してきた。装甲車の車輪に向け、群集は大きなコンクリート片を投げつけ、停止させた。怒った群集は装甲車を取り囲み、古い木材を積み重ねて火を放った。数分後、車の扉が開き、兵士が1人、飛び出した。群集は彼を捕まえて殴り、殺してしまった。
1時20分。後続の装甲車隊が群集を銃撃しながら北新華街に次々に到着した。弾丸が飛来し、群衆の中に血まみれになって倒れる人間が続出した。デモ参加者は兵士たちが空砲でもゴム弾でもなく実弾を撃っていることを知り、恐怖に駆られて天安門方向や脇道へと逃走した。
1時45分。さらに新たな部隊が天安門に着き、装甲車隊が長安街に面して一定間隔で展開し、人民大会堂の東正面にも達した。装甲車隊は東長安街の約1万5000人の抗議者らにヘッドライトの光をあて、不動の態勢をとった。
2時9分。毛沢東主席の肖像画の前に並んだ将兵と装甲車隊は長安街の大群衆に対し発砲した。群集は東の北京飯店の方向へと、どっと避難した。多数の人間が銃弾を浴びて倒れ、苦痛の悲鳴が起きた。
報告者に向かって「なんとかしてくれ! あなたがた外国人に助けて欲しい!」と叫んだ男は次の瞬間、額の真ん中に銃弾を受けて倒れた。
2時30分。約100人の解放軍兵士は歴史博物館隣の道路の向かい側に腹ばいで布陣し、ライフルを40メートルほど東のデモ隊に狙いを定めていた。兵士たちが狙撃をするたびに、デモ隊はばらばらとなり、遮蔽物を求めた。数分後には街路に戻り、仲間の死体を輪タクに乗せ、元の場所に集結した。次に再び銃撃が起きると、10~15人のデモ隊の人間たちがまた倒れた。
4時27分。天安門の照明は同3時30分に消えていたが、また点くと、装甲車、戦車、トラックなどが果てしないほど並んだ兵器集団が姿をみせた。
照明は広場の北端近くの「民主の女神」の残骸を照らし出した。人民英雄記念碑の周囲からは煙が上がっていた。広場での銃撃は学生たちが人民解放軍への武器の無い対決で、希望を失いながら殺されていったことを意味していた。
5時30分。装甲車、戦車、トラック合計約50台から成る軍の第2の隊列が轟音をあげながら東長安街を通って、天安門広場に入った。民主活動家たちが怒りの声をあげると、解放軍将兵はジープに装備した機関銃2丁を撃ち始め、15分ほども銃撃を続けた。
この大虐殺が中断されたとき、天安門広場と北京飯店の間の東長安街の路上には25~30の人間の体が横たわり、その一部はもがき、他は動かなかった。活動家たちはその道路ににじり寄り、死傷者を輪タクに乗せ、人民解放軍の狙撃手の列とまた対決する構えをとった。
6時20分。装甲車、戦車、トラック合計約40台の軍の第3の隊列が東長安街を東から驀進し、広場に入った。人民解放軍将兵は民主活動家ら群集に向けまた10分ほど機関銃の激しい射撃を続け、多数の死傷者を出した。
この2回の虐殺の間、天安門の政府拡声器からは奇妙に優しくなめらかな声が流れ、「北京の友人たち」に「混乱は終わり、秩序が回復され、乱暴者たちは鎮圧されました」という鎮静の言葉が伝えられ続けた。
7時30分。拡声器が静かになって数分後、聞きなれた勇ましい中国国歌が流れて、周囲の空気を圧した。だが国歌の吹奏はその途中で歴史博物館の背後から響いてくるライフル発射の音と東長安街でのデモ参加者にまた発射された機関銃の連続音とに抑えつけられた。
国歌が終わると、ソフトな女性の声が流れた。「同志たち、おはようございます。幸いにも反革命分子は粉砕されました。私たちの愛する天安門広場に平和が回復されました」と>。(産経新聞)2009.6.1 18:15
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3430 天安門発極秘報告電報 古森義久

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