私は沢内村新町で生まれた。父親は鷲の巣鉱山に勤めていた。六人兄弟で私は四番目。すぐ上の兄が男一人であとは女ばかり。
隣が郵便局でよ、そこの家の娘さんな、北上の女学校へ行っていたの。私も行きたいなあと思って見ていたの・・・。
姉たちは盛岡の女学校へ行っていたし、兄は盛岡工業へ行っていたし、私だけ入らねでしまった。そんたらにお金あるものでないしょ。姉たちや兄でお金、使ったんだもの。
その時思ったのよ。「自分の子には何が何でも学校さ、入れでやる」とな。
家で百姓、といってもあちこちの草取りしていたの。
おらの父さんの妹がら「国子、どご嫁っこさけろ」って言われだったべもの。
二十の時、嫁さ行ったの。
当時は髪を伸ばしているもんだがら、自分の髪で島田結って、着物は髪結いさんがら借りでね。
あの当時はみんな歩いたもんだ。新町のおいなりさんまで歩いて、あど車だったな。
小屋敷タクシーってあって、小屋敷さんが車一台持っていて、タクシー屋をやっていたの。あのあだりは、タクシーは珍しいものであった。
嫁さ、けられる時、母親がら「話は聞き上手になって、他人(ひと)の事は言ってはならねえよ。他人の言う事を、ほうほうと聞いて、後で自分で、あれはいいな、こうだば、だめだなと判断するもんだ」と言われていた。
それは今でも胸さ、しまっておいで守ってらな。
嫁さ、けらえだ(嫁いだ)家は、自炊専門の宿をしていて、高橋与助という名から「高与(たかよ)」と呼ぶもんだっけ。二階がさっとある位の小さな宿だった。嫁に行って、次に日から、まんま炊きよ。
なんと自炊宿なんだから、朝ま、二十の鍋が並んでるもんだっけ。煙突ついだかまどで炊いで、煮立ってくれば下ろして、七輪さおぎっこ(燠)を入れで、鍋上げで蒸すの。それを一つ一つやるの。二十鍋分な。
秋田からのお客さん多くてな。おれ板拭きしてれば「姉ちゃん、ほれお茶っこあがれ」なんて言われでな。「あど、もう少し拭いでがら」なんて言ったりしてな。
朝はあだりめに五時か六時頃起ぎでな。自炊のお客さんは、朝早くねえがらな。
おら嫁さ行った時、高与の親たち二人は、前の年に亡くなっていた。旦那と旦那の妹たち五人いだった。一番上の妹は私と同じ年で、その下に四人いだった。でも、いじわるされだわけでもなし、皆に助けられでやってきた。
われ、わらし(子供)は六人もった。女子四人、男二人、旦那の妹五人、あど、われだど十三人家族だった。いろいろあったべども、忘れでさんて、そんたにせづねえども思わなねで暮らしたべな。
義妹たちも、それぞれ嫁になってな、その都度、私と主人は、服や着物を借りで着たのよ。
せば、主人はモソモソと肩をゆらしたりして、まだ式も終わらねうぢ「母さん、早ぐ服脱がねが(脱がないか)なんて言って、おかしかった。
自分のわらしには「他人から借りて着るもんでね。お金が出はった時に買えばいいのだ」と教えだもんだ。(続く)
古沢襄追記=東北の言葉は女性が喋ると”唄”を聞く思いがする。かつて志賀かう子さんと盛岡のドイツ料理店で食事をしたら、即興で東北言葉を長々と聞かせてくれた。東北の言葉は、長い歴史の積み重ねの中で出来上がった文化なのだ。恥ずかしい言葉ではない。
高橋繁西和賀町長から八十八歳の高橋国子さんが書いた作文を送って頂いた。読んでみて、東北の言葉で綴った生活の”唄”だと感じた。国子叔母の許しを得ていないが、パソコンをいじれる年齢ではないから、黙って掲載した。酒を飲みながら、この作文の朗読を若い女性の読み手から聞きたいものである。
高橋国子(たかはし くにこ)=古沢元の小説「鶯宿(あうしゅく)へ」のモデルとなった元の従妹。旧姓は古沢国子。小説では「相手はもとは分家の娘で、いまは郷里の部落と二里ばかり離れたこの山の湯のお神さんになっている和子・・・」という書き出しで登場している。
「けらえだ家」の作品で国子は、父親は鷲の巣鉱山に勤めていた・・・とあるが、為田文太郎(初代の沢内村長)に認められ、経営している鷲の巣鉱山の差配を任され、その後、沢内村の助役になった古沢吾一氏のことである。
仙台の旧制第二高等学校に進学した古沢元は、夏休みには郷里の沢内村に戻り、分家に立ち寄って、十二歳下の国子を連れて、和賀川で水遊びに興じている。美少女だった国子を可愛がった。典型的な南部美人の国子は八十八歳になった今でも品のよい美しさを失っていない。
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3467 けらえだ(嫁いだ)家① 高橋国子

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