自炊宿は、それなりにお客はあったども、実入りが細いもんだがらな。あど、宿は古くなっていたがら建で替える事にしたんだべ。
おらの旦那は相談して物事を進める人でながった。何でも一人で決めてな、こうしてやるがらなと言うくらいでな。私も旦那の言う事に、なんだかんだと言ったことはないな。自分で思ったようにやったらいいべど思っていたからね。
木造三階建の旅館にしたっけ。
板前を三人、あど二階にお手伝いさんが五、六人いだったんだね。お客さんもまあまあだったんべ。お父さん(旦那さん)は、いっつも午前様で帰って来るの。飲んで来るの。
飲んで来るべった。私はいっつも、父さんが帰ってから寝でね。こんなことがあったの。お帰りのお客さんを玄関までお送りしてね。
「どうもお粗末申しました。また、おでんで下さい」と見送ってな、そのまま玄関で眠ったらしいの。家の人たちが「母さんいない。母さんいない」って探したんだって・・・。
若い頃だからね。さまざま、あったんべ。
旅館の方がなんぼが(少し)慣れできてから父さんな、タクシーもやったっけ。あのあだりの湯本は、そりゃ賑やかだった。旅館も飲み屋さんもいっぱいあってな。夜になると、それぞれ泊まっている宿の浴衣を着たお客さんたちが、げだっこ、カラカラ鳴らして、ぞろぞろと歩いているもんだっけ。
父さんのタクシーも一台で回らねねべ。タクシーを待っている間、お客さんを居間にあげて、お茶っこ出したりな。
そんな父さんも五十八歳で亡くなった。なんと飲んだ人だったもの。
それからは、旅館の切り盛り、子育てと大変だったど思うども、今思えば、まるで夢みだいなもんで、何が大変だったかなんて忘れだんだね。
子供たちはそれぞれ学校さ入れでな。これは私の願いであったもの。男の子は、自分の向ぎ方さ向げでな、自分でやらねねべしな。女の子は、みんな仙台の大学、短大を出たの。
二番目息子は医者になって、県立病院さ勤めることになっていだども病気になってな。病気が腹いっぱいに広がっていだっけど。手遅れだった。
長男も医者になってら。
娘たちもサラリーマン、物書きさ嫁いでら。子供たちは、それぞれ独立して生きていぐべから心配さ、ねごどにした。
私、七十歳まで旅館をやった。あどええなど思ってな。旅館やめだの。今は家を小さくして娘と暮らしてるの。ここが私の家なの。
私、どこさも出はったことないの。戸の口三寸以上、出はったことないくらいだべ。どごさが(どこかへ)いきでとも思わねなあ。われ、けらえだ家(嫁いだ家)が一番いいの。
古沢襄追記=ここで出てくる”物書き”は作家の村松友視氏。古沢元の小説でモデルだった人の娘が作家夫人というのも不思議な縁といえる。国子さんの東北言葉で綴られた文章は、八十八歳とは思えない一つの人生の”詩”となっている。文才があるのかもしれない。
次男の医者が若くして亡くなった時に国子さんを訪ねたが、気丈に堪えている姿に感動した。その時に盛岡にいる医者の長男から、一緒に住もうと言われているけど「われ、けらえだ家(嫁いだ家)が一番いいの」と微笑んだ印象が残っている。日本の母が国子さんの姿・・・。
高橋国子(たかはし くにこ)=古沢元の小説「鶯宿(あうしゅく)へ」のモデルとなった元の従妹。旧姓は古沢国子。小説では「相手はもとは分家の娘で、いまは郷里の部落と二里ばかり離れたこの山の湯のお神さんになっている和子・・・」という書き出しで登場している。
「けらえだ家」の作品で国子は、父親は鷲の巣鉱山に勤めていた・・・とあるが、為田文太郎(初代の沢内村長)に認められ、経営している鷲の巣鉱山の差配を任され、その後、沢内村の助役になった古沢吾一氏のことである。
仙台の旧制第二高等学校に進学した古沢元は、夏休みには郷里の沢内村に戻り、分家に立ち寄って、十二歳下の国子を連れて、和賀川で水遊びに興じている。美少女だった国子を可愛がった。典型的な南部美人の国子は八十八歳になった今でも品のよい美しさを失っていない。
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