北朝鮮が、二回目の核兵器実験を行った。ここで、二〇〇九年の日本を一人の男として、見立ててみたい。いったい、〃日本〃という男のマナーは、どうなっているだろうか?
その九日前に東京では、民主党の代表選挙が行われた。
民主党は総選挙で勝って、政権をとろうとしているというのに、二人の候補による討論は、安全保障にも、外交問題にも触れることが、まったくなかった。幼稚だ。国防と外交について、アメリカにすべてを委ねているのだ。それでは属州か、恥ずべき属国ではないか。
日本は「専守防衛」を聖句として、朝鮮民主主義人民共和国か、中華人民共和国が日本に万一攻撃を仕掛けてくることがあったら、そのミサイル基地や、策源地を攻撃するのはアメリカにまかせて、ひたすら本土の防衛に当たるといってきた。アメリカ軍が槍で、自衛隊は盾だというのだ。
だが、日本が一人の男だとしたら、どうだろうか。
槍を抱え、雄叫びをあげて、危険な敵地に斬り込む危険な役割は、アメリカ人にまかせて、自分は陣地に立て籠もって、盾の背後に身をすくめていようというのだ。これでは「平和主義」は、「卑劣」を言い替えたものでしかないか。
生命を惜んで、親しい友人を生贄としようとする。狡いとしか、いえない。もし、「あなたは狡(ずる)い」といわれたら、怒らないだろうか。日本民族はいつからこんな卑しくて、惨めな民になってしまったのか。
読者はこんな友人を持ちたいと、思うだろうか?
今回、北朝鮮が二回目の核実験を実施すると、自民党の一部や、マスコミの一部が、日本も敵地を攻撃する能力を整備すべきだという声を、いまごろになってあげている。
多くの日本国民が、同胞が北朝鮮によって拉致されているというのに、ブッシュ政権のアメリカが北朝鮮に対する「テロ国家指定」を解除したことを、怒った。だが、仮にアメリカ国民がキューバによって拉致されたとして、アメリカが日本に援けを求めることがあったなら、日本が真面目になって救出に協力するものだろうか。
そんな手前勝手な男がいたとして、敬意を払われるだろうか。
集団自衛権の行使を禁じているというのは、わが身だけが可愛いという、利己心から発したものだ。アメリカが日本の拉致問題に冷淡だといって、憤るのはやめたい。
日本は恥の文化だと、いわれてきた。つい、このあいだまでは、日本の男たちは恥を知って、己れを厳しく律してきた。
それが男らしい――人間らしいことだった。日本を優れた国とした恥の文化は、美意識によって支えられていた。
新渡戸稲造の著書『武士道』は、よく知られている。「卑屈な行動や、不正な行為ほど忌むべきものはない」と、戒めている。
福沢諭吉が「独立自尊」という言葉を、遺している。己れを尊ばなければ、国であれ、人であれ、独立することができない。
他人や他国に寄生する者や属国は、いつか、かならず見捨てられる。贅肉ばかりの己れの姿を鏡に映してみたら、脂汗がたらりたらりと、吹き出してくることだろう。
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