3633 33年前の「臨時閣議」 岩見隆夫

解散問題で悩み抜いた首相は何人もいた。麻生太郎首相だけではない。話は古くなるが、1976(昭和51)年夏のカナダ・モントリオール五輪に、麻生はクレー射撃の日本代表で参加した。当時、石炭・セメントの麻生産業社長、35歳。
五輪期間中の7月27日、田中角栄前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される。麻生が日本青年会議所会頭に就任するのはその2年後、衆院初当選は3年後だ。
従って、<首相の犯罪>が裁かれ、戦後政治の分岐点となったロ事件を、麻生は政治家として体験していない。政界はくる日もくる日もロ事件一色だった。
田中逮捕の翌月、自民党の主要6派閥は三木武夫首相の退陣を求めて挙党体制確立協議会(通称・挙党協)を結成した。<三木降ろし>の包囲網が完成したのである。
三木はロ事件を徹底究明する姿勢を貫き、それを封じ込めようとする挙党協は世間の評判が悪い。しかし、田中は逮捕の身になっても政治力と人気が抜きんでており、自民党内は、
「三木には惻隠(そくいん)<あわれみの心>の情がない」などと反三木で結束したのだ。いまの自民党衰弱の淵源(えんげん)はこのころにあったとみるべきだろう。
ロ事件の政治決着は衆院選で国民に判断を求めることによってつけようと三木は決意し、解散の機をうかがう。<麻生降ろし>の風圧が次第に強まり、孤立感のなかで解散に手をかけようとしているところが、33年前の三木と重なる。
忘れもしない、9月10日の息詰まる臨時閣議。解散の臨時国会召集を決めるためだ。延々5時間に及ぶ。
閣僚20人のうち、署名を拒む反三木が15人、福田赳夫副総理、大平正芳蔵相、竹下登建設相、安倍晋太郎農相らだ。拒み続けるなら15人全員を罷免して三木らが兼務する強硬策が準備されていた。
しかし、いよいよ決断という時、坂田道太防衛庁長官が、
「まあ、そうあせらずに時間をかけてはどうですか」と口を挟み、永井道雄文相が同調して、緊張の糸が切れた。不思議な瞬間だった。三木の心中にも迷いがあったのかもしれない。担当記者たちは、
<自民、分裂へ>の予定稿を用意していたが、すんでのところで回避された。もし決断しておれば、自民党は二つに割れ、その後の保守政治は違ったコースをたどったはずだった。
結局、年末の任期満了選挙、自民敗北、三木退陣となった。
この緊迫のドラマについて、日ごろ睦子夫人との会話が多い三木が、何も語らなかったという。
睦子は「三木と歩いた半世紀」(東京新聞出版局・93年刊)のなかに、<最高責任者の総理大臣というのは、自分の後ろにだれもいない孤独な立場といわれますが、重大決断は人に話したり、相談できないものなのでしょう>と書いた。
あすの東京都議選を経て、来週からの政局は一気に乱気流に巻き込まれる。麻生が、
「私が決める」と何十回となく繰り返してきた解散時期は、もはや待ったなしだ。解散の署名を拒否する閣僚が何人になるかは情勢次第だろう。
ポリティカル・アニマル(政治動物)と言われた粘り腰の三木でさえできなかった強行突破が、麻生にできるか。
「自信家だからやるんじゃないか」と自民党のベテラン議員が漏らすのを聞いた。それとも、退陣の説得に折れて身を引くか。
人の話を聞きすぎる、と言われてきた麻生も、こんどばかりは1人で腹をくくるしかない。睦子夫人のお説のように。(敬称略)
杜父魚ブログの全記事・索引リスト

コメント

タイトルとURLをコピーしました