六年前のことになるが、「戦後政治の一系譜 岸・福田・安倍・森・小泉の路線」という小論を書いたことがある。小泉内閣の当時であった。その後、この系譜は安倍晋三、福田康夫に受け継がれ、麻生太郎が率いる現内閣も広い意味では、この系譜といえよう。
だが民主党の台頭は、新しいページを開く可能性がある。それは福田赳夫が構築した路線から田中角栄の路線に回帰するかに見えるが、それほど単純なものではあるまい。とは言うものの近づく総選挙で民主党が勝利すれば、小沢一郎の勢力が民主党内で100人を越す一大グループに肥大化して民主党の路線に大きな影響力を行使するのは間違いない。
この時期に六年前の小論をあえて再掲してみた。あくまで私見に過ぎないが、鳩山民主党政権が誕生すれば、岸から続いた系譜が終わることを意味する。ある意味では、安倍晋太郎、森喜朗が模索した旧田中派との和解ひいては新しい大連立の可能性を想像させる。
それは田中角栄の路線に回帰するのとは、似て非なる新しい保守の構築になるのではないか。それが出来ずに木に竹を接ぐ社民党との連立志向にとどまれば、新政権が出来ても短命に終わる公算が高い。
当然のことながら岸・福田・小泉・安倍の系譜は、大連立には同意しないであろう。総選挙でこの系譜の消長がどうなるか。これも総選挙の見所になる。
◎戦後政治の一系譜 岸・福田・安倍・森・小泉の路線(2003・2・2)
◆このところ安倍晋三官房副長官の人気が急上昇気味で、テレビや新聞でモテモテぶりが目立つ。祖父が岸信介元首相、オヤジが安倍晋太郎という政界サラブレットの血筋だが、それよりもオヤジの外相秘書官当時から、北朝鮮に拉致された被害者の立場にたってきた真摯な対応ぶりが、今になって高い評価となってかえってきたといえる。政治家としては未知数。むしろ安保改定を強行した岸の孫ということからタカ派のイメージを持たれているので警戒する向きも少なくない。
◆これから官房長官や外相の枢要なポストにつくようになると一寸した言葉尻をとられて野党からアベ・パッシングを食うことが大ありと私は思っている。人気というのは、ある日、突然に風向きが変わるものである。
あれほど人気があった田中真紀子が、議員辞職にまで追い込まれたのは、人気にあぐらをかいて、我が儘お嬢さんぶりを露呈したからだ。人気があれば、あるほど自らを持する謙虚さがあったら、真紀子が破局を迎えることはなかったと思う。
次の選挙で真紀子の当選がほぼ確実視されているが、今のままでは政界の”女・一匹狼”で終わってしまうのではないだろうか。田中角栄元首相の一人娘で、物怖じしないキャラクターの持ち主だっただけに政界に一人ぐらい彼女の様な変わり種がいても良いではないか、と思っているのだが・・・。
◆同じことは安倍官房副長官にもいえる。岸の孫であり、安倍晋太郎の次男という政界サラブレットの自負をまず捨て去ることが先決で、将来の総理・総裁候補とおだてられ、自惚れた時に破綻が始まる。
もっとも岸の娘で晋太郎夫人となった洋子は、息子の安倍官房副長官を大らかに育てている。オヤジも政界の手練手管にはまったくダメな方だったが、息子もその血をひいていて何か超然としたところが抜けない。大野伴睦や河野一郎を手玉にとった岸のDNAはまだみえてこない。魑魅魍魎が跋扈する政界で果たして生き残っていけるのだろうか。
◆安倍官房副長官のことで付言しておきたいのは、北の王者だった安倍一族の末裔だと東北では信じられていることである。とくに岩手県の中部地区は、安倍伝説の宝庫。「原姓安倍氏・豊間根家の栞」(石至下史談会資料)の古文書には、前九年役で滅亡した安倍氏について「三男宗任、五男正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦と伊予国桑村へ流罪、宗任は後に宗像郡大島で生涯を閉じ、地元の安昌院に眠る。享年七十七歳」とあるが、その宗任の末裔が亡き安倍晋太郎で、子息の晋三は父の跡を継ぎ衆院議員として奔走していると古文書の紹介文に記されている。
◆安倍貞任は猛将だったが、宗任は知将で知られ、その才幹を惜しんだ源義家が一命を助けて配下に置いたことは、平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とあるほか、太平記には「源義家の請によりて、安倍宗任を松浦に下して領地を給う」と記載されている。鎮西要略によると「奥州の夷・安倍貞任の弟・宗任、則任を捕虜と為し、宗任を松浦に配し、則任は筑後に配す。宗任の子孫・松浦氏を称す」とも出ている。元寇の役で活躍した水軍の松浦(まつら)党は、宗任の末裔。
宗任の様にしたたかな知将として生き延びることが出来るのか、一匹狼のタカ派で終わるのか、安倍官房副長官のこれからの成長にすべてが懸かっている。
◎保守合同・安保改定で燃え尽きた岸
◆最近になって岸が政治生命を賭けた保守合同と安保条約の改定を再評価する声を聞くようになった。戦後日本の繁栄は、この土台の上に築かれたという評価である。
戦後政治を検証する時に「保守本流」意識という言葉が用いられる。吉田茂首相の愛弟子だった佐藤栄作、池田勇人ら吉田自由党の流れが本流であって、保守合同の相方であった鳩山一郎の民主党系を意識的に傍流とする考え方である。
この区分けからは、岸信介、河野一郎、福田赳夫、三木武夫、中曽根康弘らは傍流として括られる。この傾向は角福戦争で田中角栄が勝利者となり、田中政治の正当性を高めるために好んで用いられた。吉田自由党の本流は田中であって、傍流の福田ではないという位置づけである。さらに田中退陣後も久しく闇将軍として「田中支配」が続くに及んでこの用語が定着した観がある。
◆話は変わるが、東京・牛込の神楽坂には特別の思い入れがある。私は小学校の六年間を神楽坂近くの払方町で過ごした。家の前には日暦作家の古賀菊治が住んでいた。夕方になると父と母に連れられて、神楽坂を散歩することが多かった。
裏道には芸者の置屋が立ち並び、乙な三味線の音色が聞こえてきた。薄暗い置屋街を通り抜けると神楽坂の夜店の灯りがそこはかとない情緒をかもしだす。ビルが立ち並ぶ戦後の東京とは違う風景が戦前にはあった。
◆政治部記者となって池田内閣当時のことになるが、岸が親しい政治記者を神楽坂の料亭に招いてくれたことがある。福田赳夫も顔を出して、初めてまじまじと福田の顔をみたが、第一印象は「貧相なひょうたん顔」でしかなかった。
これが池田内閣に真っ向から対決していた党風刷新連盟の総帥なのかと意外な感じを持ったことだけは確かである。
その料亭が保守合同の舞台裏となった料亭「松が枝」。神楽坂近くで育った私だが、初めて二階にあがって、岸が語る保守合同の裏話に興味を惹かれ、昔を思い出す余裕もなかった。それ以来クリスマスの夜になると「松が枝」で岸を囲む親しい記者との会が恒例のように毎年行われた。
◆保守合同の立て役者だった三木武吉も「松が枝」をよく使った一人だった。昭和二十九年に吉田自由党に対抗する鳩山民主党が結成され、岸、三木の二人は民主党の結成以前から保守合同の構想を「松が枝」で語り合っている。
この時に民主党幹事長だった岸は、「人事の神様」といわれた実力者・松野鶴平を味方に引き入れようと腐心している。
やがて保守合同がなり、自由民主党が誕生して、衆院298議席、参院155議席の「五五年体制」ができたのだが、初代幹事長になった岸は、鳩山一郎総裁と相談して、世話になった松野鶴平の処遇を考えている。
岸は「松野参院議長」を考えたが、参議院側の事情もあって、鳩山・松野会談では運輸相のポストを提示し、見事に蹴られてしまった。結局は松野参院議長で落着したのだが、これが縁になって岸・松野の太いパイプが出来るようになる。岸内閣になって息子の松野頼三を労働大臣に登用するなど岸の松野鶴平に対する気配りはかなりのものであった。
◆岸は一時、松野鶴平を自分の「政治指南役」に擬す入れ込み方だったが、岸派の中で台頭してきた川島正次郎の猛反対で潰れている。すでに安保条約の改定を視野に入れていた岸にとって参議院対策のうえからも松野鶴平が欠かせない存在になっていた。
「川島君がうるさくてね」とこぼしていた岸は波乱の安保国会を川島幹事長で乗り切ったが、この頃から川島と岸、福田の関係は疎遠となり、やがて川島は岸に反旗をひるがえし、池田寄りになって福田と対立したのは、しばらく後のことになる。岸派の跡目を福田にした反撥があるともいわれた。
◆岸というとマスコミは、赤坂の料亭政治を連想するのだが、実は保守合同の裏舞台となった神楽坂の「松が枝」の方に特別の思い入れがあった。維新前夜に長州藩士が京都の料亭に屯して倒幕の策謀を練ったように長州っぽの岸は、一人で盃を傾けながら来るべき安保改定に向けて秘かに不退転の決意を固めていたという。
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3638 新しい大連立の可能性(1) 古沢襄

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