◎岸退陣を諫言した二人の政治記者
◆私が初めて岸信介という政治家に接したのは、六〇年安保の前年の一九五九年ことで、岸番記者として南平台の私邸に詰めたのがきっかけである。庭で盆栽いじりをしている岸をよく見かけたが、これが戦前の革新官僚のホープといわれ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった東条首相と閣議で単身対決した男なのか、と興味を持ったものである。あれから四十三年の歳月が去った。
◆長州っぽらしい熱血漢で、若い後進の面倒見の良い人物という前評判を聞いていたが、私などは戦争拡大の指導層の一人でA級戦犯というイメージが強烈で、何となく違和感を持っていたというのが正直なところだ。
岸信介という人物像にあらためて興味を持ったのは、総理・総裁の座を下りた池田内閣時代に東京を離れて御殿場で不遇の時を過ごしていた頃からだ。
裸の岸は、よく語り、よく笑った。弟の佐藤栄作が政界入りする時に巣鴨の拘置所にきたので「立候補するなら社会党から出ろ」と勧めたのは、奇怪な話の様に思われるが既成の保守政治に飽きたらない革新派らしい発想である。
だから西尾末広の民社党が生まれた時には、自民党と民社党の連合政権を模索している。警職法や安保改定の印象が強烈なので超タカ派のイメージが定着しているが、内政面では「最低賃金制」や「国民年金制度」など社会保障制度を岸内閣の手で創設している。このことを知る人も少なくなった。
◆晩年の岸は御殿場の別邸に籠もりがちで訪れる人も少なくなったが、私が顔を出すと「歳をとったら転ばない、風邪をひかない、義理を欠く三つが長生きするの秘訣でしゅよ」とよく冗談をいった。安保改定を果たしたことで自分の役割が終わったと達観している様子だった。
◆六〇年安保騒動で世間には知られていない秘話がある。岸が退陣を決意したのはかなり早い時期だった。国会デモが警官隊と衝突して東大の女子学生が圧死する不幸な事件が発生したが、その夜、岸は総理官邸に秘かに数人の側近を集めて対応策を協議している。六月十五日のことである。
弟の佐藤、政権を譲るつもりでいた池田、防衛庁長官だった岸派の赤城宗徳、官房長官の椎名悦三郎、それに娘婿の安倍晋太郎。興味があるのは、SとOの二人の政治記者が呼ばれていた。安倍は元毎日新聞の政治記者、SとOは安倍の盟友で岸側近記者といわれていた。
◆怒濤のような国会デモは警察機動隊の手に余る状態になっていたのは、誰の目にも明らかであった。佐藤と池田は自衛隊の出動によって鎮圧する強硬論を吐いている。低姿勢内閣を看板にする池田が、この時に強硬論だったのは知られていない。
これに真っ向から反対したのは赤城だったが、意見が真っ二つに割れたのをみてとった岸はSとOに意見を求めている。岸は自ら退陣することによって事態を収拾する決意を秘かに固めていた。
SとOはこもごも「総理が退陣することによって事態を収拾する以外に道はない」といったのだが、佐藤と池田は「何をいうか」と血相を変えてSとOに詰め寄っている。それを引き取った岸は「自分の腹は決まっている」といって話を打ち切っている。
◆この会合は厳重に秘匿することでお開きとなったのだが、数日たって副総裁の大野伴睦が「岸は退陣を決意したらしい」と早耳で聞きつけている。しかし確証を得ていない。大野は岸からの政権禅譲を期待していた一人である。
SとOはすでに故人となったが一介の政治記者が佐藤と池田という実力者と渡り合ったのは、岸の決意を察知してのことであったのだろう。安保改定で岸はすでに燃え尽きていたといえる。新安保条約の批准書交換を終えた二十三日に岸内閣は総辞職、国会デモは潮が引くように消えた。
◆御殿場にひき籠もった岸だったが、アメリカの共和党筋には太いパイプを持っていた。ニクソン大統領との交友が有名だが、CIAからも情報が絶えず入っていた。私は岸からアメリカの最新情報をオフレコで聞かされ、それがニュースに出来ないもどかしさを何度か経験している。
そのアメリカでは田中角栄の評価は低いが、佐藤栄作や中曽根康弘よりもA級戦犯だった岸の評価が今もって高いのは、日米同盟を築いた功労者という位置づけをしているためであろう。アメリカの高い評価に反比例して、日本の岸に対する評価は低いまま今日に至っている。「昭和の妖怪」「巣鴨プリズンのA級戦犯」のレッテルがそれである。
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