◎カネとモノ政治に立ちふさがった福田
◆福田赳夫というと池田内閣の看板だった高度経済成長施策の批判者として安定経済成長政策を掲げ、田中内閣の目玉であった日本列島改造計画に対しては「カネとモノの政治」と終始追及の手を緩めなかった印象が強く残る。
角福戦争は経済政策論争の形をとっているが、根底にはカネ・モノよりも”心の豊かさ”を重視しようというという精神論が福田の基調となっている。人間がカネとモノに執着すれば、相対的に心が貧しくなるという帰結を政治哲学の基本に据えて、池田、田中の前に立ちふさがったのである。
◆六〇年安保騒動で国論を二分した傷痕を癒すためには、政治主義の岸政治から経済主義を旗印にして豊かさを求める高度経済成長施策を池田内閣が掲げたのは、まだ貧しさの中にあった国民の琴線に触れるものがあった。
トイレ、バスなしの六畳一間で世帯を持ち、夜はサントリーの角ビンを横目でみながら、トリス・バーやニッカー・バーでハシゴ酒をしていた時代である。貧しくても心の豊かな社会といわれても国民の大多数は、やはり今よりも少しでも豊かな生活の方に魅力を感じていた。2DKの団地が庶民にとってまだ高嶺の花だった頃のことである。
豊かさを求める池田路線に対して福田は最初から強烈な批判者として名乗りをあげているが、それが庶民の共感を得るのには、まだしばらく時間が必要であった。物質的な豊かさを求めて世界第二の経済大国になり、一億総中流意識を持った時代になったのに教育現場が荒廃し、青少年犯罪が激増する思ってもみなかった社会的な危機状況に日本は直面した。何か大切なものを忘れていた、それは心の豊かさを追求してこなかったことではないか、と国民が考える様になって福田が唱えた”心の政治”が実感をもって迫ってきた。
◆池田内閣の末期になると過剰設備投資、中小企業の倒産が出るようになって過熱した成長政策の弊害が、池田内閣の中枢にあった前尾繁三郎、宮沢喜一などから問題意識として指摘され出した。池田首相の信頼が厚い前尾は幹事長として内閣の屋台骨を支えたが、前尾からは福田の考え方に対するあからさまな反撥、苦情が聞かれなかった。
二人は大蔵省の同期入省ということもあったかもしれないが、バランス論者だった前尾は池田の成長政策を支持する一方で、高度成長のアクセルを緩め、むしろブレーキを軽く踏む必要性を痛感していた。
◆この点は前尾を池田の唯一の後継者と早くから目していた宮沢も同じスタンスをとっている。福田と前尾、宮沢の間には一脈通じるものがあったと思う。違いは、福田が経済政策論にとどまらず精神の自立論を色濃く持っていたことである。
この意味では福田はまさしく岸の後継者であった。これに対して前尾は岸の強権的な側面を批判し、穏やかなニューライト路線を唱えている。対立よりも宥和を身上とした。手法の違いともいえるが、半面、権力に対する執着心が稀薄な前尾の性格が出ている。それが熾烈な権力争奪の気迫に欠けるという前尾の弱さを露呈したことは否めない。
◆路線からいえば池田の高度成長政策は、佐藤派の田中角栄にストレートに継承され、日本列島改造論に装いを変えて、登場することになったとみるべきである。その繋ぎ役になったのが大平正芳。
池田内閣当時には田中(蔵相)と大平(官房長官)の力関係は、大平が上位にあって「大平・田中盟友」と称されていた。ともにニューリーダーを意識していたが、大平は田中と結び、まず大平政権を秘かに描いていた。
二人の関係が逆転したのは、佐藤内閣になってからの後である。いずれにしても前尾・宮沢と大平の間には微妙なズレが生じ、池田の死後、前尾派内の主導権争いが顕在化する。
◆池田から佐藤に政権が移って、経済財政政策は福田が取り仕切った。これによって安定経済成長路線が始動し、過熱気味の日本経済にブレーキがかかった。まさに福田時代が到来したかにみえた。
しかし自民党の支持層は減り続ける。工業立国、輸出立国を目指した池田の高度経済政策は、農村の若年労働者を太平洋ベルト地帯に集中し、都市集中型の社会に大きく変化していた。農村はカーチャン、ジイチャン、バアチャンの三チャン農業といわれる様に過疎化が深刻になってくる。自民党の支持母体が崩れ、この構造変化は福田の手をもってしても押しとどめることが不可能になっていた。
◆新しい保守の理念が求められたが、有効な手立てがないまま佐藤内閣末期には国民の支持率が低下し、むしろ閉塞感に包まれいた。危機意識が自民党の中に生まれ、ダイナミックな政策転換を求める動きが当の佐藤派の中から出てきた。福田を後継者とみていた佐藤の下で雌伏していた田中角栄の出番の条件が熟してきたといえる。
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