◎禅譲を信じた福田の甘さ
◆福田は佐藤からの政権禅譲に期待した。佐藤四選がなかったら、その可能性があったのかもしれないと、私の同僚だった西村恭輔は回顧している。西村は共同通信社政治部から福田の秘書になり、前尾を担当していた私が西村の後を受けて福田担当になったいきさつがある。
前尾のところに挨拶にいった時には、池田と激しく対立していた福田担当になるので内心忸怩たるものがあったが、「福田君とは仲がいいんだよ」と打ち明けられて拍子抜けした記憶が鮮明である。
◆西村がいう「佐藤四選がなかったら」は水面下で動きがあった。前尾が福田に協力する姿勢をみせていたからである。前尾にとっては、派内で前尾おろしを画策していた大平を封じる必要性があった。
田中・大平の盟友関係は池田内閣から続いていたが、福田は田中を意識し、前尾は大平を警戒する事情があった。だが福田は愚直に動かなかった。あくまで佐藤からの政権禅譲を信じていたからである。
傍目にも福田の愚直ぶりがもどかしかった私は、野沢の福田邸で福田派議員や福田担当記者を背にして、福田の甘さを詰め寄ったことがある。福田から返ってきた言葉は「フルチャンのために政治をやっているのではない」だった。今から思えば若気の勇み足であったと思う。
◆振り返れば、三選に続く四選によって佐藤の派内に対する支配力が衰えをみせたのは否定できない。田中はこの機を逃さなかった。力で佐藤から政権を簒奪する挙に出て、見事に成功している。同時にこの簒奪方式が田中から竹下への政権樹立にも使われたのは、皮肉な因果応報ともいえる。
福田は間違いなく田中にやられると予感した私は、新天地を求めて富山支局長に転出した。一年半の短い任期だったが、この間、福田は二度、富山にきてくれている。政権奪取の意欲が少しも衰えていない福田の執念に触れて、いつしか私の血が騒いだものである。福田を追いかける様にして園田直も富山に遊びにきてくれた。
◆田中内閣の成立を氷見ロータリークラブの講演に向かう車中で聞くことになるが、その夜は福田の顔がちらついて寝付かれなかった。間もなく金沢総局長に転じて北陸勤務は都合五年間となったが、本社に帰任した夜、福田夫人から電話がかかってきた。「主人が古沢さんに会いたいといっているわよ」。それが外野から政界にタッチするきっかけになって今日に至っている。
◆角福戦争の第一ラウンドは田中の勝利で決着して、福田は池田時代よりも激しい批判者となって雌伏する。アメリカ発のロッキード事件がなかったら福田は雌伏のまま終わっていたのかもしれない。
田中が打ち出した日本列島改造計画は、日本の北から南まで全国新幹線網と高速自動車道路で網に目の様に結び、大都市と地方の時間差を解消するという画期的な構想であった。日本全土で建設工事ラッシュとなり土地価格が高騰して、国民資産が毎年増える好況を呈した。輸出も急増してその影響で日米経済摩擦が深刻化してくる。
◆日本経済が過熱し、土地価格の高騰が異常なバブル状態を迎えてもコンピューター付きのブルドザーはアクセルを踏み続けた。田中は全体のパイが大きくなれば、そこに過熱の矛盾が吸収されるという拡大生産方式が信じていた。
ダイナミックな田中路線の前には福田の安定経済成長政策に基づくブレーキ論は、色褪せてみえたのは仕方あるまい。ロッキード事件で田中退陣後、三木武夫が総理の座についたが、三木おろしの党内抗争後、福田は念願の総理の座についた。しかし昭和五十三年の総裁公選で田中・大平連合軍に敗れ、無念の退陣を余儀なくされた。
◆これ以降、田中は膨張した田中派の数の力を背景に闇将軍として君臨し続け、田中支配の内閣を作り続けた。福田にとって雌伏の日が再び訪れる。派閥も安倍晋太郎に譲り、自らは水戸黄門と称して、OBサミットの創設に関わり、日本の首相経験者として各国首脳との交流を深めた。
これは岸の発想ともいわれる。注目されるのは、後に総理となる森喜朗(第一回ウイーン総会)、小泉純一郎(第三回パリ総会)を福田は同行し、世界の指導者と顔合わせをさせていることである。福田の愛弟子といわれた森はカネとモノ重視から教育重視の政治の志向し、小泉は経世会支配の構造打破の影響を色濃く受け継いでいる。
◆アクセルを踏み続けた田中政治の帰結としてバブル崩壊後、長引く不況の波に日本は洗われる様になる。バブルの山が高かっただけに不況の谷は深い。
福田が唱えた抑制された成長政策に早めに転じていたら山は低かったかもしてないが、谷はこれほど深くなかったと思う。新しい問題は、深い谷の中でブレーキを踏み続けると縮小均衡経済に陥る危険性があることだ。
小泉内閣はまさにこの課題に直面している。アクセルとブレーキはほど良く踏むことによって、日本経済という車が前に進む理屈であろう。角福戦争は、この常識論を押し流して、権力闘争と化した面があることを否定し得ない。
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◎角福戦争を脱する安部と森の模索
◆安倍晋太郎は角福戦争を脱した「安・竹連合」を模索した。福田の轍を踏むまいと考えたフシがある。竹下登にしてやられた面は否めないが、田中、福田を乗り越えた路線を志向したことは間違いない。
しかし圧倒的な数を誇る竹下派の前では、竹下の協力を欠いた安倍政権は砂上の楼閣である。これは形を変えた田中支配の延長、竹下支配の政権となる運命を内包していた。帰京した私は赤坂プリンスホテルの福田の部屋を訪れる機会が多くなったが、意識的に安倍を避けたものである。
安竹政権志向に何か割り切れない疑問を持っていたからである。安倍は不幸にして政権を目前にして、この世を去った。安倍の盟友だったSとOも後を追うようにして亡くなった。Sの葬儀は生前の華やかさとは較べものにならないひっそりとしたものだったが、最前列に安倍夫人の洋子が座っていて、その横顔が岸の生き写しだったのに息を呑んだものである。
◆小渕首相の急死によって橋本派の支持によって誕生した森内閣は、皮肉なことに安倍が目論んだ角福戦争を脱した政権の性格を帯びている。橋本派の協力がなければ、森内閣は砂上の楼閣になることを森が認識していたからである。
森が無所属で当選し、福田派の一員となった時に赤坂プリンスホテルで福田に森を紹介されて以来、交友関係が続いている私は、森内閣の誕生に当たって二つのことをいった。一つは橋本派の協力を失えば森政権は砂上の楼閣になること。もう一つは小渕の遺言となった沖縄サミットと不況対策のメドがついたら、福田の意志を継いで教育問題を政策課題の中心に据えることである。森はもともと文教族である。
◆少し遡るが、細川内閣の出現によって自民党が野党に転落した時に森は河野総裁を支える幹事長になっている。私は幹事長の森に「寄せ集めの細川政権は意外と脆い集団だから細川は半年、多分、羽田になると思うが羽田三ヶ月と思って、短い野党時代に思い切った自民党の脱皮を図るべきだ」と忠告した。
そして「河野に代わる自民党の新しい星として、国連高等弁務官の緒方貞子を口説いたらどうだろう」と提案したことがある。突飛な思いつきの様だが日本の顔として「和製サッチャー」の出現を期待していたからである。森は「ウーン」といって押し黙ってしまったが、無理な注文なことは承知していた。幹事長の立場で、総裁の河野おろしをするわけにいかないだろうし、当の緒方だって固持した可能性が強い。
◆緒方総裁が一足飛びに実現できないまでも村山内閣で河野外相でなく緒方外相が誕生していたら、その後の自民党はかなりのイメージチェンジと脱皮ができていたであろう。少なくとも田中真紀子の外相は無かった。
案外、小渕後に日本初の女性総理が誕生していたかもしれない。森はナンバー・ツーとして緒方の支えに徹し、むしろ「陰の総理」として政界で隠然たる力を発揮できたと思っている。これによって角福戦争から脱した新しい政治のページを開くことができた筈だと思っているのだが・・・。
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◎江田に似た小泉手法
◆小泉内閣の成立は政党政治の常識をうち破る手法をとっている。古くは江田三郎が社会党の主導権を握るために党を越えた国民大衆の支持を集める方式を志向した。五万人の限られた党員組織は戦前からの労農派・左派が強く、大胆な右傾化路線の江田は苦杯をなめてきた。
それを打破するために理論面ではイタリア共産党仕込みの構造改革路線を掲げ、労農派と鋭く対決した。江田ブレ-ンに代々木脱党派が多かったのはそのためである。
◆国民世論はむしろ江田ビジョンを好意的に受けとめたが、社会党という限られた集団組織の中では少数派であった。党内抗争に敗れた江田は社会党を離れ、憤死している。
抗争に勝ったかにみえた左派路線も社会党の長期低落傾向を押しとどめることができなかった。小さなコップの中の争いは、結局、共倒れに終わって、社会党の歴史に終止符をうつことになった。しかし江田の現実路線が旧社会党の右派に継承されて、今日でも民主党内に命脈を保っている。
◆江田が描いた新しい政治地図は、自民党内の三木・松村派、改進党系、河野洋平グループと手を結び、旧体質の社会党左派を斬り捨てた国民政党を志向していたといえる。今の民主党とよく似た政党である。しかし六〇年安保から七〇年安保にかけての保革対決の時代にあっては、江田構想はまだ機が熟していなかったといわざるを得ない。
◆この路線は社会党内の主導権争いの枠から越えて、意識する、しないに拘わらず古くて新しい命題である「保守二党論」の水域にまで、結果として足を踏み入れようとした点を指摘しておきたい。
保守合同の時代にまで遡るが、強力な保守新党の樹立を目指した岸に対して、松村謙三は保守二大政党による政権交代の構想を掲げて対立している。これは改進党主流の基本理念でもある。江田は右傾化と呼ばれることを厭わなかったのは、進歩的保守主義との合流を視野に入れていたからである。
三木武夫もこの延長線上にあった。後に三木内閣が誕生した時に大物秘書官として擬せられたこともある内田健三は、この時代の江田に少なからず影響を与えている。熊本県人の内田は細川内閣の誕生に当たっても、ブレーン役とを演じたが、熱心な保守二党論者でもある。
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◎小泉は政権維持のために経世会の力を削ぐ
◆小泉首相の手法をみると江田のそれとと類似した面がある。自民党と社会党という違いはあるが、党の既成秩序を壊し、国民支持率を背景に党外の政治勢力を加えた新しい政治地図を描いている点は、まさに同じ手口である。いずれも党内の猛烈な反撥を招いている点でも似ている。
しかし、江田が「保守二党論」の水域にまで足を踏み入れようとしていたのに比較すると小泉はその点が明確でない。手法は類似していて、保守二党制度を意識している様にもみえるが、どうも目指すものが違う気がする。
そもそも小泉が最大派閥である橋本派・経世会と対立する様になったのは、森内閣を支えた時に、野中幹事長やそれと気脈を通じた公明党から揺さぶりをかけられた苦い経験が根っこのところに残っているからである。野中に対する拭いがたい不信感が消えない。結局は保守二党論ではなくて、経世会に対する脅しの域を出ていないと感ずるのは間違っているだろうか。
◆経世会などを「抵抗勢力」と名指しで攻撃しているのに較べると小泉と公明党との関係は一時ほど悪くはない。公明党の野中離れが目立ち、森、小泉ら政権側に接近が目立つようになっている。参議院で自民党が劣勢に立っているので、小泉の方も公明党の支持を欠いては政権維持ができないことを覚った様である。同じ経世会でも青木参院幹事長の言うことには耳を傾けて、野中に対する頑な態度とは違いをみせている。
基本的に小泉のスタンスは政権維持のために経世会の力を削ぐことが大前提となっっている。「自民党をぶち壊す」という台詞はそこから発している。経世会を牽制するために、あえて民主党の保守系に秋波すら送ってきた。景気回復を先行させるべきとする経世会の提言に対して頑なに「構造改革なくして景気回復なし」と突っぱねる理由はそこにある。野中と青木に対する姿勢の違いも見方によっては経世会の分断策ととれなくもない。
◎日中から日ロ外交に傾斜
◆「攻撃は強いが守りは弱い」が私の小泉評。攻撃を最大の防御と信じているフシがある。野中に対する姿勢は明らかに攻撃型である。しかし、野中と青木が小泉批判で足並みを揃えたら守りの弱さを露呈してしまう。
兄貴分の森が懸念しているのはその点であろう。森も小泉も福田の影響を色濃く受けているが、岸からの直接の影響が比較的稀薄な点でも似通っている。福田を介した岸しか知らないといえる。あるとすれば、
外交政策で経世会が重視した中国よりもロシア外交に傾斜する傾向が目立つ点である。岸も福田も蒋介石の台湾派。森も小泉も台湾派ではないがその代わりロシア外交にウエートを置いている。
◆岸は晩年に二一世紀における石油外交を唱えている。尖閣列島を中心とした東支那海に中東を上回る埋蔵石油があることを早くから指摘し、これが掘削できれば将来の日本は世界の石油大国になる夢のような可能性まで示唆している。
台湾重視の政策は尖閣列島から海上のパイプラインを台湾に敷設する構想と無縁ではあるまい。実際にはアメリカの技術力をもってしても、世界最深のエムデン海溝に連なる東支那海の海底油田を掘削することは困難な技ではあるのだが・・・。だから岸の話は夢の石油大国と割り切った茶飲み話の域を出ていない。
◆岸のこの発想は、日米同盟は安保改定によって基礎が固まったので、これからの日本は石油をいかに安定的に確保するか、その視点に立った資源外交が念頭にあった。この延長線上には、サウジアラビアに次ぐ原油埋蔵量を持つロシアが現在では浮上してくる。
◆福田は田中の遺言ともいうべき日中平和友好条約の締結を園田外相の手で実現した後、日ソ関係の改善を最大の外交課題と考えていた。岸の資源外交が念頭にあったと思う。しかし、田中・大平連合の前に不覚にも敗れ、総理の座を下りることになったので、いわば福田の遺言が森と小泉に託された。
沖縄サミットを前にしてサミット首脳に対する訪問外交をした森は、迷わずロシアのプーチンを最初の訪問相手に選んでいる。日ロ関係の最大の懸案である北方四島の返還交渉でもシベリア奥地のイルクーツクに赴き、プーチンと差しの会談を行った。北方四島問題を解決し、シベリア開発に協力することによって、新たな日ロ関係を築くつもりでいた。
◆小泉のモスクワ訪問は思いつきではない。森と違う点は、北方四島の返還を棚上げではないが、長期的な課題と位置づけ、エネルギー資源を武器に国家財政の再建を目論むプーチンとの間で、新しい日ロ友好関係を結ぶ現実的なアプローチに乗り出したことである。東シベリアのアンガルスクから極東ナホトカまで敷設する「太平洋ルート・パイプライン」の構想に並々ならぬ関心を寄せている。
◆経世会が日中関係にウエートを置くのは、日中正常化の井戸を掘った田中の遺産を受け継いでいるからだが、福田の後継者を自認する森と小泉が、新たな日ロ関係に意欲を燃やすのと奇妙な一対をなしている。靖国神社の参拝問題で中国の反撥を受けても小泉は意に介さず、むしろ冷淡ともみえる対応ぶりは、日ロにウエートをかければ、相対的に日中が冷え込む図式を予想させる。
橋本派も森派も日米同盟を基軸とする点では一致しているが、日中、日ロに対するウエートの置き方の違いは、いずれ新しい火種となって降りかかってくるであろう。
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◎「太平洋ルート」の問題点
◆常識的にみれば日本の近隣国家として日中も日ロもゆるがせに出来ない外交課題である。これまでは日中が先行してきたきらいがあるが、性急に日ロにウエートをかけ過ぎると中国との関係が悪化する懸念がなしとしない。
ロシアの「太平洋ルート・パイプライン」は、その危険性を内包している。何故なら「太平洋ルート」構想の前にロシアは「中国ルート」のパイプラインを中国との間で協議、計画していたからである。
◆これはアンガルスクから中国黒竜江省の大慶までのパイプライン敷設のことで、中ロ両国は協定を締結し、敷設費用の一部を中国側が負担することで合意している。しかし、中国側が費用回収のめどが立つまでの石油の購入価格を現在一バレル当り三〇ドル前後の国際価格の半分以下となる一二ドル程度に抑えるよう要求し、これを拒否するロシアと折り合いがつかないまま交渉は暗礁に乗り上げている。
◆ロシアとしては同時並行してこの二つのパイプラインを建設することが事実上不可能であるから、二者択一で「太平洋ルート」をロシアが選択する可能性がでてきたわけである。建設コストは大きくなるが、将来の経済性を考慮すれば「太平洋ルート」にロシアが魅力を感じるのも不思議ではない。
しかし、世の中は経済性だけで律し得ないことも事実である。「太平洋ルート」を選択すれば中国は反撥し、中ロ・日中関係が悪化するのは目にみえている。ロシアとて中国との関係が悪化することは望まないであろう。日本の財界は「太平洋ルート」に関心を寄せているが複雑な国際関係をはらんでいるだけに早急な進展はないとみるべきであろう。
◆小泉外交の目玉となった北朝鮮との国交正常化も拉致問題がネックとなって早急な進展は望めなくなった。加えて日ロ関係が急進展をみせる可能性が薄いとみなくてはなるまい。目立つのは日米軍事同盟の色が濃くなってきたことである。
吉田の単独講和、鳩山の日ソ共同宣言、岸の日米安保条約改定、佐藤の沖縄返還、田中の日中共同声明に比較して小泉の日朝ピョンヤン宣言はまだ一つの時代を画するものになっていない。外交面ではまだ見るべき成果をあげていないというべきであろう。
◆そうなると問題はやはり内政問題になる。長引く不況の谷間でブレーキを踏み続けることはもはや限界点に達している。深刻なデフレ状況から脱するためにアクセルをどう踏むのか、大胆な政策転換の時期にきた。インフレターゲット論が登場してきた理由もそこにある。デフレ状況からの一日も早い脱出なくして、財政構造改革はかけ声だけの画に描いた餅になるからである。
◆福田の安定成長論はバブルに向かってひた走る高度成長に対する警鐘としての意味があった。深刻なデフレ状況の最中に、性急に財政構造改革を進めようとしても、置かれている社会経済状況が福田の時代とは違うことに小泉は気がついているのだろうか。
国民は小泉の財政構造改革を支持しつつも当面のデフレ脱却をより強く求めている。手順を誤ればカケ声だけの改革に終わる可能性を孕んでいると知るべきである。
さらに懸念すべきは国民の支持率頼みの政権になっていることからポピュリズム政治の傾向が顕著になってきたことである。国民に背を向けた政治は、あってはならないことだが、政治が人気とりに堕すると将来に禍根を残すことになる。その危険な水域に近づいているのではなかろうか。小泉丸の前途は多難といわざるを得ない。(敬称略)
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3642 新しい大連立の可能性(5) 古沢襄

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