3683 食肉、魚肉逆転は1988年 渡部亮次郎

我々の先祖は様々な理由から肉食を謹んできた。大ぴらに牛肉を食べた天皇は明治天皇が初めてだった。それをきっかけとして日本人は次第に肉食をするようになったが、それでも主副食は魚だった。
そうした時代が長く続き、肉の消費量が魚を上回ったのは1988年 (昭和の終わる前年)だった。僅か20年前まで日本人は「魚食民族」だったのだ。
大東亜戦争が始まる頃から、内地では徐々に食料の欠乏が始まった。そのため、特に下層階級が経済的理由で内臓料理を食べることが多くなった。その頃、やっと国民学校(小学校)に入学した。食糧不足に加え腎臓病を抱えて虚弱児童だった。
例えば大東亜戦争中および被占領期の北海道の赤平炭鉱では、鉱夫がウマの内臓を煮て食べたていたという証言がある。
一方、1942(昭和17)年に発表された金史良の小説『親方コプセ』の中で、朝鮮人土工が密造酒を飲みながら臓物を食べる様子が描写されている。
また、普通なら捨てるか肥料にするはずの臓物を、朝鮮女工が貰い受けて煮て食べるということもあった。
1941(昭和16)年10月には農林省告示第783号「牛及豚ノ内臓等ノ最高販売価格」が出されているが、佐々道雄はこの内容は当時すでに牛や豚の内臓が食用として流通・販売されていたことを反映しているとしている。
一方で被占領期の都会では、降伏直後から1949(昭和24)年ごろまであった闇市などで様々な獣肉が売られることもあった。
例えば焼いた動物の臓物が「焼き鳥」として売られていた(ただし「牛豚の臓物の焼き鳥」自体は大正時代から存在する)。
1946(昭和21)年の『朝日新聞』には東京で野犬、畜犬を区別なく捕まえてその肉を闇市で売りさばき、3万円余を荒稼ぎした男が逮捕される記事が掲載されている。
在日韓国人の金文善は著書『放浪伝』の中で、大阪の闇市で臓物を出汁と具にした「びっくりうどん」が売られて日本人が食べているのを目撃したが、そのあまりの不潔さに、在日韓国人として臓物を食べなれている金でさえ食べられなかったと語っている。
大東亜戦争後も、日本人の動物性タンパク源は魚肉が中心であった。食肉も1946(昭和21)年からの物価統制令の対象となったが、1949(昭和24)年には供給が需要に追いついていち早く対象から外されている。
戦後食糧事情が悪化した1946(昭和21)年から1947(昭和22)年ごろ、主代用食として、アメリカ陸軍のレーションであった缶詰のランチョンミートが配給された。
これ以外にも、米軍からの放出物資、あるいはその名を借りた盗品売買により、ランチョンミートは高価ではあったが食糧として一時的に普及した。
1946(昭和21)年末から学校給食が再開され、1950(昭和25)年からはガリオア資金の援助により一部で完全給食(栄養価が考えられたおかず付きの給食)が実施され、1952(昭和27)年からは有償給食となって、肉食も提供されるようになった。
筆者はこの頃、中学生だったが、農村地帯の所為か、学校給食にはあずからなかった。それどころか家庭でも肉と言えば家で飼っている鶏の肉しか知らず、生まれて初めて豚肉を食べたのは中学2年生の秋だった。さすが鶏の2倍は美味しかった。
大人になって東京で初めて牛肉のステーキを食べたときは豚肉の2倍美味しかった。なるほど餌の量に比例するのが肉の味味と知った。
また、1951(昭和26)年に魚肉ソーセージ、1957(昭和32)年頃にブロイラーが登場して、安価な食材を使っての食事の洋食化が進んだ。
1960(昭和35)年には牛の佃煮の缶詰として売られていたもののほとんどが馬肉や鯨肉であることが判明した「にせ牛缶事件」が発生して大きな社会問題となった。
1960~70年代の高度成長期からは食肉の需要が急増し、1975(昭和50)年にはソーセージの材料として魚肉を逆転し、1988(昭和63)年には実質供給タンパク質量で魚肉を逆転した。
内臓食も、昭和30年代以降は家庭料理として定着しはじめ、食肉生産の増大に伴って畜産副生物の流通も1975(昭和50)年頃には牛で1955(昭和30)年の2倍、豚で10倍に近い水準に達した。1992(平成4)年の空前の「もつ鍋」ブームをきっかけに、家庭用食材として需要が定着した。出典:『ウィキペディア』
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