社会党の委員長だった河上丈太郎さんは印象に残る政治家であった。国会で河上さんの演説は名演説という評判が高かった。しかし河上さんの演説は下手であった。河上さんに惹かれた私は政治部長の許可を貰って、北から南まで遊説の同行取材をしたことがある。
最初は札幌で演説した。国会で聴く河上演説とはまったく違う下手さ加減に驚いたものである。同行取材は私一人だったので、夕食をともにしたが、別に体調が悪い様子もない。「下手な演説でした」とは言えないから黙々として飯を食べた。
仙台でも河上演説の調子がでない。ただ「オヤッ」と思ったのは、演説が札幌演説と一字一句と言っても良いほど違っていない。仙台なら仙台向けの気のきいた事を言えばいいものを、思ったので夕食の時に「札幌演説と変わりませんね」と恐る恐る聞いてみた。
河上さんはニヤリと笑って、「同じ演説をしても聴衆は変わっているよ・・・」
講演会で喋る様になって河上さんの言う意味が私にも分かる様になった。サービスのつもりで地元のことをいろいろ持ち上げても、それは所詮は付け焼き刃に過ぎない。演説の内容の方が重要であった。東京、名古屋、大阪をめぐって調子があがった河上さんは、九州に来た頃には、まさに国会での七色の声と称された様に名演説になっていた。
全国遊説が終わった夜、河上さんは「次の全国遊説は南から始める」と本部書記に指示していた。
いうなら律儀な政治家と言える。一高から東京帝国大学法学部を卒業した河上さんは高等文官試験に合格していたが、内務官僚の出世コースを選ばずに立教大学などで教鞭をとっている。戦前の一九二八年に日本労農党から出馬して当選。国家社会主義的な政策を唱えて大政翼賛会総務となっている。
これが災いしてGHQから公職追放を受けた。一九五一年に追放が解除されると翌年、右派社会党の委員長に推された。遊説で「私の戦時中の行動に批判を抱く人がいたら、どうか選挙を通じて厳正な批判を下していただきたい。また、この河上を許してくれる人は、河上一個人のためでなく日本社会党の前進のために御協力いただきたい」と演説して、戦前の行動を謝罪している。(ウイキペデイア)
六〇年安保の時に国会の前で右翼の暴漢に刺された河上さんを間近で見た。いささかも動揺する気配がなかった。学者出身の社会党委員長だったが、自民党にも交友範囲が広かった。不祥事があって新聞社を追放された記者を堤康次郎衆院議長のとろに連れて行って、西武自動車に再就職を斡旋した人情味もあった。
だから政治家を呼び捨てにすることが多い政治記者も河上さんだけは”さん”付けで呼んだ。人情味と人格を備えた人であった。
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3687 河上丈太郎さんの国会演説 古沢襄

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