吉田茂は外交官の出だから経済のことには門外漢だった。そこで経済評論家の小汀利得に頼った。「君、ひとつ蔵相を引き受けてくれんか」と頼んだ話がある。小汀が蔵相に推薦したのは石橋湛山だった。石橋は鳩山内閣の後に首相になっている。
吉田の石橋に対する入れ込みは相当のものだった。蔵相のまま経済安定本部長官、物価庁長官を兼務させて、石橋は吉田内閣の経済政策を一手に握った。この点は孫の麻生首相が与謝野財務相に他の経済ポストを全部兼務させて景気回復に努めたことと似ている。
だが石橋は新円切り換え問題でマッカーサーの総司令部と対立、総司令部の指令で追放処分になった。昭和二十二年五月のことである。
石橋経済のユニークな点は、経済政策は生活の向上、社会福祉に役立つものでなくてはならないとして、経済理論の根底に完全雇用を置いた。それを達成するためには、インフレ経済理論を唱えている。
かつて漫画家の近藤日出造が「石橋と書いてインフレと読む者がいる」と質問したことがある。石橋はニコリともせず「インフレを歓迎する奴はいないよ。ただ僕はだね、失業者を出すか、インフレをとるかとなると、むしろンフレをとる方がいいと思うんですよ」と答えた。積極的な経済拡大論者であった。
この石橋理論は、その後の池田内閣と田中内閣の積極経済政策に受け継がれている。
石橋はマッカーサー総司令部の財閥解体にも反対した。「日本の経済再建には財閥解体よりも財閥利用の方が先である。中心勢力を崩してスムースな再建は不可能である」とクレーマ経済科学局長に言ってGHQの不興を買った。これが追放の一因となったのであろう。
頑固一徹な石橋は蔵相になるや池田主税局長を次官に抜擢している。池田は吉田内閣で蔵相になった。主計局でない主税局のトップが大蔵次官になったのは、当時の日本経済と無縁ではない。国の財政収入はまだ乏しい時代だったから、税収をあげることが急務であった。
これは池田が首相になるや所得倍増政策を掲げたことに通じる。国民所得が二倍になれば、税収は飛躍的に増える。国の財政は安定化して、諸施策をダイナミックに進めることが出来る。だが、その一方でインフレが進行する懸念を伴う。
池田内閣で主計局出身の福田赳夫が「高度経済成長政策」に異を唱え、自民党の党風刷新連盟を率いて池田の前に立ち塞がって「安定経済成長政策」を唱えたのは、池田政策では年金生活者など高齢者が斬り捨てられるという危機感を持ったに他ならない。
石橋は終始、池田を擁護した。この経済路線の論争は今でも続いている。おそらく正論は両者の中間にあると思うのだが、政争が加わると極論のぶつかり合いになってしまう。もし民主党政権が出来れば、どちらを選択するのであろうか。まだ民主党の経済政策が見えてこない。(敬称略)
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3700 石橋インフレ政策の流れ 古沢襄

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