なぜなのか、若者のあいだで小林多喜二の『蟹工船』が売れて、日本共産党の支持者が増えているという。
そのかたわらで、昨年、ウォール街に発した〃百年に一度〃といわれる経済不況によって、しばらく忘れられていたマルクスの亡霊が、ちらつくようになっている。
東西かかわらず、男のマナーは言行一致が必須の条件となっている。
十九世紀なかばに共産主義を生んだマルクスとエンゲルスのコンビを、取り上げたい。
カール・マルクスは一八一八年にプロシア(現在のドイツの一部)で、著名なユダヤ人弁護士の子として生まれ、ボン大学とベルリン大学で学んだうえで、イエナ大学から博士号を取得した。マルクスは二十六歳のときにパリで二つ年下のエンゲルスと出会い、終生にわたって二人三脚の関係を結んだ。エンゲルスがいなければ、マルクスが共産主義の産みの親とならなかったろう。
フリードリヒ・エンゲルスはラインラントの裕福な繊維業者の子として、生まれた。マルクスはパリから追放されてロンドンに移って、エンゲルスと一八四八年に『共産党宣言』を共同執筆して発表した。
マルクス・エンゲルスの共産主義運動が全世界にひろがったのは、マルクスが大英博物館に籠って著した難解な『資本論』によるものではない。エンゲルスが「労働者は鎖しか失うものがない。万国の労働者よ、団結せよ!」という、『共産党宣言』を結んだキャッチコピーによるものだった。
エンゲルスは社会主義に傾倒していたが、父がイギリスのマンチェスターに所有している繊維会社の経営者をつとめながら、マルクスの半身としてだけではなく、ロンドンのマルクス一家の遣り繰りを経済的に支えた。
マルクスも中産階級(ブルジョア)の生活様式を捨てることがなかった。浪費癖も改まらなかった。
エンゲルスはロンドンの高級住宅街のプリムローズヒルの自宅で、毎夜、友人を集めて早朝まで大量のシャンペン、ワイン、ビールを飲み騒いで、散財した。艶福家だった。他にマンチェスターに二軒の家を所有して、一軒は会社の接客に使い、もう一軒に自分の繊維工場に働いていた、無学な女工のメリー・バーンズを囲って、愛人としていた。メリーが死ぬと、妹のリツィを愛人とした。
マルクスはロンドンで女中を二人雇っていた。その一人のヘレーネ・デムートはマルクスよりも五歳下だったが、ドイツの貧農の娘で、八歳のときにマルクスの妻のジェニーの実家――男爵だった――に働きにだされ、妻についてマルクス家にやってきた。
マルクスはヘレーネに手をつけて、男子を生ませた。フレデリックと名づけられ、ロンドンの労働者階級に預けられた。マルクスは妻を恐れていたから、エンゲルスが自分の子として認知した。持つべきは、よい友である。
ヘレーネは七十代で死ぬまで住み込んで、無給で働いた。マルクス主義では労働の搾取に当たったが、マルクスはスターリンや、ブレジネフや、毛沢東などのその後の共産政権の幹部たちと同じように、自分の私生活はマルクス主義の枠外に置いた。
マルクスの叔父のリオン・フィリップスはオランダに住み、いまもオランダの大企業のフィリップスの創業者だった。マルクスは叔父からも仕送りしてもらっていた。いまでも共産主義者は、資本主義に寄生している。
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