3717 CIAが緒方竹虎を通じ政治工作 古沢襄

戦後政治史で未解明な部分が多いが、毎日新聞は米CIA(米中央情報局)文書「緒方ファイル」から、緒方竹虎・自由党総裁に対する対日工作を明らかにしている。
CIAが岸元首相に接近した事実はほぼ解明されているが、その前に緒方氏にターゲットを絞っていた。緒方氏は急死したので首相にはならなかったが、鳩山一郎氏がソ連との国交回復に意欲的だったことから、緒方首相の実現に期待していたことが窺われる。
ニクソン政権下のことだが、戦後宰相で米国がもっとも信頼した相手は大平正芳首相だったと、豊田祐基子氏は米側資料をもとに書いている。歴代のどの首相よりも「西側の一員」を鮮明にした態度に好感を持ったという。米側が期待した二人の政治家だったが短命に終わった。
<1955年の自民党結党にあたり、米国が保守合同を先導した緒方竹虎・自由党総裁を通じて対日政治工作を行っていた実態が25日、CIA(米中央情報局)文書(緒方ファイル)から分かった。CIAは緒方を「我々は彼を首相にすることができるかもしれない。
実現すれば、日本政府を米政府の利害に沿って動かせるようになろう」と最大級の評価で位置付け、緒方と米要人の人脈作りや情報交換などを進めていた。米国が占領終了後も日本を影響下に置こうとしたことを裏付ける戦後政治史の一級資料と言える。
山本武利早稲田大教授(メディア史)と加藤哲郎一橋大大学院教授(政治学)、吉田則昭立教大兼任講師(メディア史)が、05年に機密解除された米公文書館の緒方ファイル全5冊約1000ページを、約1年かけて分析した。
内容は緒方が第4次吉田内閣に入閣した52年から、自由党と民主党との保守合同後に急死した56年までを中心に、緒方個人に関する情報やCIA、米国務省の接触記録など。
それによると、日本が独立するにあたり、GHQ(連合国軍総司令部)はCIAに情報活動を引き継いだ。米側は52年12月27日、吉田茂首相や緒方副総理と面談し、日本側の担当機関を置くよう要請。政府情報機関「内閣調査室」を創設した緒方は日本版CIA構想を提案した。日本版CIAは外務省の抵抗や世論の反対で頓挫するが、CIAは緒方を高く評価するようになっていった。
吉田首相の後継者と目されていた緒方は、自由党総裁に就任。2大政党論者で、他に先駆け「緒方構想」として保守合同を提唱し、「自由民主党結成の暁は初代総裁に」との呼び声も高かった。
当時、日本民主党の鳩山一郎首相は、ソ連との国交回復に意欲的だった。ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見たCIAは、保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継候補に緒方を期待。55年には「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け緒方の地方遊説にCIA工作員が同行するなど、政治工作を本格化させた。
同年10~12月にはほぼ毎週接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行。「反ソ・反鳩山」の旗頭として、首相の座に押し上げようとした。
緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報は、アレン・ダレスCIA長官(当時)に直接報告された。緒方も55年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っていた。
だが、自民党は4人の総裁代行委員制で発足し、緒方は総裁になれず2カ月後急死。CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告した。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。
結局、さらに2カ月後、鳩山が初代総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣(かやおきのり)氏(後の法相)や岸信介幹事長(当時)に切り替えていく。
加藤教授は「冷戦下の日米外交を裏付ける貴重な資料だ。当時のCIAは秘密組織ではなく、緒方も自覚的なスパイではない」と話している。(毎日)>
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