3729 「襄ちゃん、取材できたの」と高見夫人 古沢襄

間もなく八月十七日がくる。作家の高見順(たかみ・じゅん、本名・高間芳雄)氏が亡くなった命日である。昭和四〇年、母から電話があった。「高見さんがいけないらしい。お前は仲人をしていただいたのだから、病院に行きなさい」。
政治部長に断って千葉にある高見さんの入院先に向かった。控え室に入ると高見夫人が出てきて「襄ちゃん、取材できたの」と厳しかった。「いえ、母から高見さんと最後のご対面をしてくる様に言われましたので・・・」。高見夫人がニッコリとして「それならいいわ」。
カーテンを半開きにした病室は暗かった。高見夫人に連れられて病室に入った私は、ベッドの高見さんを見て息を呑んだ。生前の高見さんには、北鎌倉の家で何度か会っている。身体の大きい、顔は自信に光り輝いていた。
臨終の床にある高見さんは一回りも二回りも小さくなっていた。病室から出て、控え室に戻ったら、作家の吉行淳之介氏と女優の宮城まり子さんが来ていた。高見夫人から紹介されたが、しばらくして「ねむの木学園」の彼女だと気がついた。
政界のことばかりに気が回って、世間のことに疎かったから、吉行淳之介氏が亡くなるまで、宮城まり子さんと二人は、夫婦同然のよきパートナー関係にあったことなど、知るよしもない。二人は偶然、病院で一緒になったのだろうと思っていた。
その夜は控え室で仮眠をとった。吉行淳之介氏も宮城まり子さん一緒。高見夫人は病室で高見さんを看取っている。
明け方、控え室を抜け出して病院の玄関脇に停まっているタクシーのところに行った。私が病院に着いたら、文化部の小塙学、森野朔郎両記者が来ていた。二人とも高見順さんの”番記者”だった頃がある。だが、高見夫人から「取材はお断り」とシャット・アウトを食って困っていた。
「病室の様子を教えてくれないか」と森野さんに頼まれてしまった。「予定稿は全部、書いてある。あとは死亡の速報だけだ」と言われて、高見夫人ならずとも少なからず反感を持ったが、なにせ先輩記者二人の頼みだから無下に断るわけにもいかない。
「まだ大丈夫。今夜も持つかもね」と多少、意地悪く二人に告げた。私は午後にも病院を辞するつもりでいた。一九六五年、東京オリンピックの翌年。佐藤内閣になっていた。あれから四十四年の歳月が去った。”最後の文士”といわれた高見さんのことを知る人は少なくなった。高見文学を読む人は、もっと少ない気がする。
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