友人の菊池今朝和さんは北アルプスに魅せられた山岳登山家。新日鉄を定年退職したら迷わずに北アルプスの池の平小屋の番人になった。夏山シーズンに入ったことしも仲間たちと山ごもりをしている。その菊池さんから面白い山岳紀行文があると教えて貰った。数年前のことである。
西川一三さんが1991年に書いた「秘境西域八年の潜行」(中央公論社)の上中下三巻である。神田の古書店から手に入れることが出来た。菊池さんはヒマラヤ踏破の紀行文として読んだが、私は行ったことがない西域、チベット、インドの現地政治事情を知るガイド・ブックとして興味深く読んだ。
「秘境・西域八年の潜行」のインド・ネパール篇(下巻)は、今読んでも興味深い。一般の紀行文とはひと味違う。西川さんは大日本帝国時代の駐蒙大使館調査部勤務となり、ラマ僧姿で西北支那に潜入を命じられた。諜報員、平らったくいえばスパイの西域潜入記録である。
潜行範囲は内蒙古、寧夏、甘粛、青海、チベット、ブータン、西康、シッキム、インド、ネパールに及んでいる。昭和25年6月になって、ようやく帰国したが、すぐGHQ(連合軍総司令部)から六ヶ月間の事情聴取を受けている。八年間の潜行について、記憶だけで報告した西川さんは並の諜報員ではなかった。
昭和23年にチベットからインドに潜入している。インド語を習得してラマ僧に扮して無銭で托鉢しながら、汽車は無賃乗車・・・カルカッタでは改札口で「ラマ、チケット(切符)」と駅員に咎められている。黙秘していたらチベット人のただ乗りに慣れっこの駅員から無罪釈放された。潔癖なインド人にとってうす汚いラマ僧が発する悪臭に駅員も閉口したらしい。
無一文だから泊まる宿屋もない。しかしインドの停車場は夜になると無料の宿泊所となる。敗戦の翌年、東京に出てきた私は上野駅が戦災孤児の宿泊所と化しているのを目撃した。同じ光景がインドにもあった。カルカッタの安飯屋に入った西川さんは、軍服に身を固めたスバス・チャンドラ・ボースの肖像額を見て「スバス・チャンドラ万歳」と叫んでしまった。
安飯屋で食事をしていた客たちが「ラマ、お前はスバス・チャンドラ・ボースを知っているのか」
「知らないでどうしよう。私たちはアジア人である。アジア人であって、アジアの英雄・チャンドラ・ボースを知らない者がいようか」と西川さんは熱っぽく答えた。
スバス・チャンドラ・ボースはインドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ベンガル人である。第二次世界大戦勃発後、密かにインドを脱出して陸路アフガニスタンを経て、ソ連でスターリンに協力を要請するが、断られたため、ソ連経由でナチス政権下のドイツに亡命した。
ムッソリーニやヒトラーにも協力を要請するが、ヒトラーには「インドの独立にはあと150年はかかる」と言われ協力を拒否された。ドイツではインド人から成るインド旅団(兵力三個大隊、約2000人)を結成し、イギリスからの独立のためにベルリンから反英ラジオ放送をしている。
これを聞いた日本がインドへの影響力を考え、スバス・チャンドラ・ボースとの協力を承諾。日本からドイツへの要請で、ドイツ海軍の潜水艦Uボートでフランス大西洋岸のブレストを出航、インド洋でUボートから日本の伊号第二九潜水艦に乗り換えて来日している。
日本の支援によってシンガポールで「自由インド仮政府首班」に就任。英領マラヤや香港で捕虜になったインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、インド国民軍は日本軍とともにインパール作戦に参加した。
日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を勝ち取ることが不可能となった。スバス・チャンドラ・ボースは東西冷戦を予想し、イギリスに対抗するためソ連と協力しようとした。しかしソ連へ向かおうとした時、台湾の松山飛行場で搭乗していた九七式重爆撃機の墜落事故により死去。彼の臨終の言葉は「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」。スバス・チャンドラ・ボースの遺骨は東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠っている。
インドの国会議事堂の正面にはスバス・チャンドラ・ボース、右にはガンディー、左にはジャワハルラール・ネルーの肖像画が掲げられている。インドでは現在も人気の高い政治家である。また現在もコルカタにはボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)が記念館となっている。(ウイキペデイア)
西川氏はインドでスバス・チャンドラ・ボースが”インドの救世主”と仰がれているのを身をもって知る。ラクノー駅でデリー方面に向かうプラットホームでインド軍の将校団に囲まれ「コンニチワ」と日本語で挨拶され、危うく日本人と見破られそうになった。
将校団はスバス・チャンドラ・ボースのインド独立軍のメンバーだった。ラマ僧に扮している西川さんの風貌は日本人そのものだったという。かつて蒙古族がインドに侵入して、ビルマ侵攻を企てたが、インド・ビルマ国境の峻険なジャングルという天然の要塞に阻まれて、侵攻計画が挫折している。
在ビルマの日本軍は蒙古族と逆の方向からインド侵攻を企てて、兵団が前進も後退も出来ぬ惨憺たる悲劇に見舞われた。「どうして日本軍は峻険な陸路を選んで、海路からインド侵攻を図らなかったのだろう。海路からなら無人の野を行くごとくインド平野に進軍できた筈だ」と将校団は語った。
日本の敗戦と同時にまだインドを支配していた英国は、スバス・チャンドラ・ボースの将兵全員を戦犯として軍事裁判にかけた。この時にガンディー、ネール以下インドの民衆は、インド独立軍の無罪を主張して裁判闘争に勝利している。インドからは戦犯は一人も出なかった。
東京裁判でインドのパール博士がただひとり戦犯無罪論を唱えたことをインド人は誇りに思っているという。日本人が戦争犯罪を裁く権利は認めるが、戦争の勝利者が敗者を裁くことは許されないというインド人の考え方が真っ当ではないか。
日本の敗戦を知った西川さんは、諜報員に任務から解き放たれた。だが、今度は巡礼者としてインド国内の旅を続けている。暗殺されたガンディーの夫人にも会った。西川さんが帰国したのは、敗戦から五年後の昭和25年6月13日のことであった。日本人はインド人の心をもっと知り、理解する必要がある。
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3737 インド独立の英雄・チャンドラ・ボース 古沢襄
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