3748 女優高峰三枝子の歌 渡部亮次郎

美貌歌手故に映画でもスターになったのは奈良光枝だったが、初めは美声を隠しながら美貌の映画スターとして登場したのが高峰三枝子(たかみね みえこ)だった。本名:鈴木三枝子。
1981(昭和56)年からは、『懐しのブルース』の相手役だった上原謙と共演した国鉄(現・JR)の「フルムーン」のCMで、2人で温泉入浴するシーンは話題となった。
清純で上品なお嬢様役の多かった高峰。すでに63歳だったが、その豊かな胸の谷間が大胆に披露されたこともあり、社会現象と言えるほどの人気を博す。
このCMに噛み付いたのが、元・女優で自民党参議院議員の山東昭子。「シリコンを入れているのではないか」「シリコンを入れた年寄りの胸など見たくない」と発言をしたのも話題を呼んだ。
高峰は「胸が大きいのは家系。母も妹も大きい。シリコン入りだ、なんて冗談じゃない」と反論。後年出版した自伝でもこのことについては、明確に否定している。また共演した上原も「シリコンだなんて…」とやんわり疑惑を否定している。
噛み付いた山東昭子の胸の小ささだけが却って目立った「事件」だった。
1918(大正7)年12月2日、東京府芝区露月町に生まれる。実父・高峰筑風は、高峰流筑前琵琶の宗家として、当時絶大な人気を誇っていた。東洋英和女学院を卒業した1936(昭和11)年に、筑風が急死。
三枝子は一家を養うために、周囲の奨めもあり、映画界入りを決意。帝国劇場の専務の紹介で、松竹に入社。同年に公開された大船映画『母を尋ねて』で女優としてデビューした。
理知的で気品のある美貌はたちまち人気を集め、翌年には松竹三羽烏と呼ばれた人気二枚目俳優・上原謙、佐野周二、佐分利信を相手にマドンナ役を演じた『婚約三羽烏』が公開されている。
同じ1937(昭和12)年の年末に公開された浜本広の小説の映画化『浅草の灯』で演じた浅草オペラの踊り子役で、歌を口ずさむシーンが話題となり、コロムビアがレコード歌手としてスカウト。
翌13年、映画『蛍の光』の主題歌「蛍の光」を桑野通子、高杉早苗と吹き込み、レコードデビュー。続いて映画『宵待草』主題歌の「宵待草」がヒット。
これに気を良くした松竹とコロムビアは合同で音楽映画『純情二重奏』を製作し、映画と並び霧島昇と歌った主題歌が大ヒットすると、歌う映画女優としての地位を確立した。
映画における活躍も続き、1939(昭和14)年、吉村公三郎監督による『暖流』で、気取らない名門の令嬢役をこなし、女優としての知名度をさらに高めた作品となった。
『信子』『戸田家の兄妹』『男への条件』『高原の月』と主演映画はいずれもヒット作品となり、松竹の看板スターとなっていった。
一方、レコード歌手としても、1940(昭和15)年には「湖畔の宿」、17年には「南の花嫁さん」を映画とは無関係にヒットさせている。つまり高峰は戦前、既に大スターだったのだ。
1946(昭和21)年には実業家と結婚し一子をもうける。戦後は、レコード歌手としての実績を活かした音楽映画をシリーズ化した作品『懐しのブルース』『別れのタンゴ』『想い出のボレロ』『情熱のルムバ』が主題歌と共にヒット。
『待ちぼうけの女』では、女優としての新しい一面に挑戦し、『今ひとたびの』『リラの花忘れじ』『自由学校』など、作品にも恵まれて第一線の女優として人気を誇った。
私生活では、1954(昭和29)年に離婚。その際の様々な心労から、1956(昭和31)年に声帯が凹むという奇病に罹り、ステージで声が出なくなったことをきっかけに、歌手活動から遠ざかった。
女優としても年齢に相応な役柄が多くなってきたが、『点と線』『好人好日』など松竹以外の大映や東映にも出演し、その存在感を示している。
1966(昭和41)年、11年振りに公の場で歌ったところ、声が戻っていることがわかり、藤山一郎や服部良一らの勧めもあって、東京12チャンネルのテレビ番組「歌謡百年」に出演し大反響となった。
「高峰三枝子カムバック」と報道されるほどの人気となり、1967(昭和42)年には自身のヒット曲をステレオで再録音したLPを発売し、30万枚以上を売り上げる。
また、テレビ時代に合わせ、1968(昭和43)年からは女優を起用する初めての試みであった「3時のあなた」の司会に就任。高峰の落ち着いた司会ぶりと気さくな人柄が好評。
当初の予定を大幅に延長し、1973(昭和48)年5月まで5年1ヶ月司会を務める。その間にマレーネ・ディートリッヒのショウを見たことが動機となって、1969(昭和44)年、日生劇場で「高峰三枝子リサイタル」を開催。
3時のあなたでの司会がきっかけで自民党から参議院選挙に出馬の打診があったが、断っている(その際に出馬したのが山口淑子)。
1976(昭和51)年には、『犬神家の一族』(市川崑監督)での演技が高く評価され、1976年度ブルーリボン助演女優賞を受賞。女優として初めて栄誉に浴した。
1985年、秋の園遊会に招かれた際に、昭和天皇からのお言葉に感激のあまり泣いてしまい、芸能活動について『最近どうだね?』と尋ねようとした昭和天皇も少し驚いた様子で、『本日はお招き本当にありがとうございました。』と涙ながらに答えるのが精一杯であった。
1986(昭和61)年12月、岐阜県明智町(現・恵那市)に開設された「日本大正村」初代村長に就任。
平成に入っても新宿コマ劇場でリサイタルを開いたり、テレビのバラエティー番組に出演するなど、活発に活動していたが、1990(平成2)年4月に脳梗塞で倒れて緊急入院。5月27日に死去。71歳だった。
その死は一般紙でも大きく取り上げられ、テレビでも多数の追悼番組が放送された。出典:フリー百科「ウィキペディア」
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