漫画家の横山隆一さんの生誕百年を迎えているという。明治四十二年に高知市で生まれ、画家を志して上京したが、昭和七年に清水崑さん、近藤日出造さん、杉浦幸雄さん、中村篤九さん、岸丈夫さんらと「新漫画派集団」を結成している。いずれも近代漫画の祖・岡本一平さんのお弟子さん。
新漫画派集団が昭和八年に発刊した「漫画年鑑」は、今では手に入らない貴重本になったが、近代漫画の世界を標榜した金字塔だと思う。岡本一平さんの下に集まった若き横山隆一さんらが思いおもいの風刺漫画を発表している。横山さんの風刺漫画は「べんけいはなぜ七ツ道具を持っているのか?」。
この漫画年鑑に岡本一平さんが「日本の漫画について」という一文を草している。外遊して海外漫画に触れた岡本一平さんは、ロンドンでイギリスの画家から「日本という国は絵描きには恵まれた国だ」と言ったエピソードを紹介している。
<漫画に対する日本人の理解は外国よりも深い。日本人は漫画を低く浅くみる習慣的なものがあるからレベルが高まらない。もし漫画の高級性が理解されれば日本人は描く心も、見る心もずっと高くなれる可能性を持つ国民だ。>
私が所蔵している「漫画年鑑」も七十七年の歳月を経てボロボロとはいわないが、かなり古くなった。おそらく五冊ぐらいしか現存していないのではないか。これの復刻版を作って、主な図書館で一般が閲覧できる様にならないものだろうか。
岡本一平さんは戯画と文章を巧みに組み合わせた”漫画漫文”の世界を確立している。似顔絵は当代一流で、漫画と漫文はユーモア、風刺に優れている。東京・青山高樹町の邸宅は門前に市をなす様であった。昭和二十三年に疎開先の岐阜県西白川村で亡くなった。享年六十二歳。長男は岡本太郎さん、夫人は岡本かの子さん。
その岡本一平さんの門下生で横山さんがナンセンス漫画で新しい境地を開き、いち早く頭角を現している。昭和十一年、朝日新聞に「江戸ッ子健ちゃん」の連載漫画が始まった。この年に脇役として登場させたフクチャンを主役とした「養子のフクチャン」が当たり、昭和十三年に「フクチャン」漫画で第一回児童文学賞を受賞した。四コマのフクチャンは戦前、戦後を通じて一世を風靡した。
”横山流”が新漫画派集団の中で評判となるにつれて、近藤日出造さんと杉浦幸雄さんは猛烈な刺激を受ける。似顔絵で清水崑さんと並んで一流と言われた近藤さんは「よし、ナンセンスは横山に任せた。オレは得意な似顔絵を生かして政治漫画をやる」と杉浦さんに宣言している。
杉浦さんは杉浦さんで「オレは女をかく。女が主役の風俗漫画を描いて、女をかかせたら日本一の漫画家になってやる」と近藤さんに見栄を切った。
いずれも古風な戯画風の絵に長々と説明文をつける過去の手法に反逆した若手漫画家の声である。スマートであか抜けたセンスの欧米漫画を志した漫画改革の新しい動きといえる。「言葉よりも絵で笑わせる」とうのが”合い言葉”となった。その上に戦後漫画の大流行が築かれている。
横山さんは平成十三年に九十二歳で亡くなったが、叔父に当たる杉浦さんから新漫画派集団時代の燃えるような若き漫画家の志を聞いていたので、漫画界の巨星墜つといった感慨を覚えたものである。翌日の新聞に「現代ではおどろおどろしい絵や話のものが漫画と呼ばれてしまっている。本当の意味での”漫画”は終わった」と澄夫人が語っていたのを素直に受け止めることができた。
私の父・古沢元と母・真喜は新漫画派集団時代から横山さんと交友があった。元の実弟の岸丈夫、義弟の杉浦幸雄、親友だった中村篤九といった人たちを通じての交友だったのだろう。
縁というのは不思議なものである。敗戦の年に母の実家がある信州・上田市に疎開した。その上田市にもB29による焼夷弾攻撃や艦載機による銃撃を受けて、上田市郊外の小さな村(新屋村)に再度、疎開した。その村に横山さんの一家も疎開していた。
50メートルも離れていない家で母と私は横山さん一家と再会した。横山夫人は野菊のように美しい人であった。長女の比紗子さんは、まだ小学校にあがっていない。私も中学一年生。母と横山夫人は連れだってよく買い出しに行っていた。農村とはいえ都会からの疎開者には辛い食糧難の日々であった。
学校から帰ると比紗子さんを連れて近くの川でカジカ突きをしたものである。敗戦後、横山さん一家は鎌倉に帰っていった。ある日のことである。母が暗い顔をして「横山さんの奥さんが亡くなったそうよ」と私に告げた。疎開先で苦労した疲れが出たのではなかろうか。
父もシベリアの抑留先で栄養失調で戦病死した。戦争というのは平和な家庭をズタズタに引き裂く。明治四十年生まれの父の生誕百年は二年前のことである。親しかった杉浦さん、岸さん、中村さんも、すでにこの世にない。八つ違いの比紗子さんは、どうしているのだろうか、ふっと思ったりする。
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