有徳には敵すべからず。(左伝)--得を守っている人に対して、敵対行動はなし得るものではない。
時 :昭和二十年(1945)十二月二十一日
場所:生物学御研究所の接見室(皇居内)
陪席:石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、藤田尚徳侍従長、
木下道雄侍従次長、入江相政侍従、徳川義寛侍従、戸田康英侍従
■拝謁前の大金益次郎宮内次官からの要請
大金宮内次官(当時51歳):「君(田中)が思うことをお上にお話ししてくれて結構だ。君は思うことをズバズバ言う方だから、その通りにやってもらいたい」
*大金益次郎:1894年(明治27年)生。栃木県。戦後初の侍従長。
■御前にて
田中清玄(当時39歳):
「私は陛下に弓を引いた共産党の書記長をやり、今日では根底から間違っておることが分かりました。ただいまは、自らの罪業の深さを悔い、龍沢寺の山本玄峰老師の下で修行を致しております」
*田中清玄:1906年(明治39年)生。北海道。
陛下(当時44歳):「・・・・・」
*昭和天皇:1901年(明治34年)生。第124代。
田中清玄:
「天皇家が健全なままに二千数百年にもわたって続いてきたこと自体、諸民族の統合体である日本民族を、大和民族として統一し、融和させてきたことを証明するものであり、天皇家なしには、社会的融合、政治的統合体としての今日の日本はございません。
したがって皇室ご健在であることに深く感謝致すとともに、陛下に対しても心から敬意を表します」(それから私は三つのことを申し上げた。)
田中清玄:
「陛下は絶対にご退位なさってはいけません。軍は陛下にお望みでない戦争を押し付けて参りました。これは歴史的事実でございます。
国民はそれを陛下のご意思のように曲解しております。陛下の平和を愛し、人類を愛し、アジアを愛するお心とお姿を、国民に告げたいと思います。摂政の宮を置かれるのもいけません」
陛下:「・・・・・」
田中清玄:
「国民はいま飢えております。どうぞ皇室財産を投げ出されて、戦争の被害者になった国民をお救いくだきい。
陛下の払われた犠牲に対しては、国民は奮起して今後、何年にもわたって応えていくことと存じます」
陛下:「・・・・・」
田中清玄:
「いま国民は復興に立ち上がっておりますが、陛下を存じ上げません。その姿を御覧になって、励ましてやって下さい」
■陛下のご感想
それに対する昭和天皇のお答えは、私たちも良く知っているように「うーん、あっ、そうか。分かった」でした。
■田中氏の感想
「そりゃぁ、もう、びっくりしたような顔をされて、こっちがびっくりするぐらい大きくうなずかれたなあ」
■田中氏の約束
田中氏は陛下の人柄と聡明さに感激して思わず申し上げたそうです。
「私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上けます」と。
退出後、入江相政氏(当時40歳)に「あなた、大変なことを陛下にお約束されましたね」と言われ、「我々が言えないことを本当によく言ってくれました」と感謝されたのでした。
*入江相政1905年(明治38年)生。藤原定家の子孫。京都の冷泉家の一族
■接見までの経緯
昭和二十年十月、『週刊朝日』に『天皇制を護持せよ』と田中氏が寄稿したのが発端のようです。そして接見は一時間ぐらい行われました。
■左翼の胚胎
当時は日本解体と天皇制廃止を狙っていたソ連があり、共産中国の誕生が間近でした。如何にそれら勢力からも日本を守るかが大問題でした。
次の選挙では、日教組を支持団体の中核に置いた勢力が政権を取る可能性が大きいでしょう。恐らく彼らの永年の主張を「教育改革」として学校教育に浸透させてくるはずです。経済などと違い表面には出難い問題です。十分な注意が必要でしょう。
桃注:田中清玄とは、、説明し難い人物です。検索でお調べ下さると助かります(笑)ー「田中清玄自伝(ちくま文庫)」参照。文責当方。
お勧めサイト
・杜父魚(かじか)文庫ブログ
「インド独立の英雄・チャンドラ・ボース 古沢襄」
http://blog.kajika.net/?eid=976731
・「皇太子殿下、海上自衛隊を閲兵」
http://www.youtube.com/momotarou100
・「国民自重の心」小泉信三
http://momotarou100.iza.ne.jp/blog/entry/470460/
・『チャンネル桜【討論!】広島・長崎・ウイグル
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3765 昭和天皇に拝謁したー田中清玄 MoMotarou

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