3770 初期水戸藩の一風景 照山忠利

ことしも先祖の命日が過ぎた。368年前(寛永18)、1641年)の7月26日、常陸国多賀郡金沢村の庄屋 照山修理は、水戸藩の郡役人の手で磔に処せられた。
藩が強行した検地に異を唱え、ついに法度である藩主への直訴に及んだため処刑されたのである。弟 主税、次男 新次郎が道連れにされた。山麓の刑場跡には今も3つの塚が残され、山百合の白い花が清楚に咲いている。
照山修理は元々佐竹家の家臣であったが、関ヶ原後に佐竹家が常陸から秋田に移封されたのを機に帰農し、金沢村の庄屋として村民の指導的立場にあった。
善政を布き領民の信が篤かった佐竹家に代わり入封したのは徳川頼房である。家康の11男で初代水戸藩主となった。
草創期の水戸藩はいわゆる御三家としての体裁を整えるため、石高を25万石から36万石に増やすための政策を強力に推進した。
殖産興業にも励んだが、より手っ取り早いのは増税であった。その手段としてとられたのが「検地」である。農民の年貢の基礎となる田畑の面積を測りなおすにあたって、測量に使う間竿の長さを短くした。
これにより見かけの面積が水増しされそれを基に算出される年貢は大幅に増えることになる。いわば有無をいわせぬ大増税を敢行した訳だ。
修理の暮らした金沢村は現在の茨城県日立市の一部となっている。阿武隈山地と太平洋に挟まれた高燥の土地で、水利に乏しく米は僅かしかとれない寒村であった。
村民の生活は苦しく常食としていたのは麦や粟、稗、芋などの雑穀が主だったといわれる。今では雑穀は健康食として人気が高いが、たまに食べるからいいのであって常食となると如何なものであろう。
300年前はいざ知らず、つい八十数年くらい前までは同様の事情にあった隣の大久保村とともに「大久保・金沢のつるし米」といわれた。臨月近い妊婦の枕元で米を入れた袋を振って「生まれたらこれを食べさせるから早く元気な子を産めよ」と励ましたという。米というものはそういう特別の日だけ食するものだったのだ。
折からの凶作も重なり困窮の極みにあった村につきつけられた大増税政策に、村民のリーダーであった修理は黙っていられなかったのだろう。郡役所に何度も出向き村民の窮状を訴え寛大な措置を求めたが役人の理解を得ることができず、やむなく禁を犯し藩主への直訴に及んだ。
すべて覚悟の上の行動であった。有名な佐倉惣五郎の事件に先立つこと13年の出来事である。修理は衆を頼んだ一揆の形をとらず自分の身を捨てて主張を遂げようとした。
一揆という組織的反抗を企てるだけの力量がなかったのかも知れぬが、それ以上により重大な禁制を破ることによる一村全滅の危機を回避する行動としたのであろう。
事件から20年後、水戸藩2代藩主となった光圀公はこの件を再吟味して修理の罪を赦し名誉回復の措置を講じた。刑を執行した郡役人2人はそれ以前に「公徳を損した」として切腹させられている。
水戸藩の初期の頃には善政の佐竹家の残党も領内に多く、旧家を懐かしむとともに水戸徳川家に対する反感のような雰囲気が強く醸成されていたのではないか。
修理亡きあと村民たちは「修理念仏」を唱えながら故人の遺徳を偲んでいたというから、そうした感情が水戸藩への不穏な動きに転化することを光圀は恐れていたのかもしれない。
光圀は藩主を退き隠居の身となってから、佐竹の旧臣たちが多く住む常陸太田に「西山荘」をつくり「大日本史」の編纂に勤しむかたわら、近隣の領民たちとの交流につとめ徳川家に対する信頼の構築に尽くした。
いわゆる水戸黄門漫遊記は、供連れで領内巡視に出かけた光圀の事跡を勧善懲悪的に戯画化したものである。
平成3(1991)年、修理没後350年を記念して「義民・照山修理フェスタ350」が開催された。地元の大学教授、公務員、会社員、自営業者、主婦らが実行委員会をつくり修理の心と生き方を広く市民と次代を担う子供たちに伝えようとの試みである。
日立交響楽団による記念演奏、かげ絵劇、トークショーなどが行われた。
照山家は現在、昔のままの土地に直系子孫13家が暮らし今でも折に触れて一族の絆を確かめているが、いわば縁のない市民の方々が郷土史を繙きながらこのような催しをしてくれることは望外のことであり、感激に堪えなかった。
私は故郷を離れ現在は一介のサラリーマンとして小さな会社の経営を委ねられている。目先の会社業績に一喜一憂しているわが身の卑小さをつくづく感じる昨今だが、せめて200人の社員のために頑張らねばと決意を新たにしている。
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コメント

  1. ゆうこ より:

    私は、旧姓照山と言います。「義民・照山修理フェスタ350年」で、鉾田市汲上の本家のいとこが招かれました。ここでは照山姓が少ないのです。日立には多いのがこれで分かりました。なんでも、修理のもう一人の弟をここへ逃げ伸ばしたそうです。水戸光圀が鹿島神社に詣でた際、当時名主であった修理の子孫を呼び出し、名字帯刀を許したということです。
    それにしても、なぜ、子孫が少ないのでしょうか。私は、鹿島城の歴史を知り、頷けた気がします。照山氏は佐竹氏の家臣で、秋田移封の折、帰農した家。鉾田周辺は、佐竹氏の南方三三館謀殺で滅ぼされた城ばかりです。日立では義民。鉾田では、にっくき佐竹氏の家臣ということでしょう。
    一つわからないことがあります。本家の屋号は、「駿河屋」というのはどういうわけでしょう。

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