茨城県には七五〇カ所を越える中近世城郭跡がある。未登録のものを含めると一〇〇〇カ所を越えるのではないか。茨城県には筑波山を除くと山らしい山がない。その多くは小高い丘の上に建てられた「丘城」。山国の信州にある「山城」とは趣を異にしている。
関東平野で覇を唱えた後北条氏の小田原城は天然の要害というよりも築城術の粋を集めた名城といえる。その後北条氏の築城術が関東平野に広まった歴史がある。織豊時代以降の豪華絢爛たる城よりも、素朴ながら攻めるに難く、守るに易い関東平野の中近世城郭は魅力がある。
その魅力に取り憑かれて、この十年来、茨城県下の古城址めぐりをしてきた。写真に納めた数もかなりに上っている。ただ、古城址は風雪に洗われて昔の姿を遺していない。小学校に校庭になっていたり、私有地の竹藪と化しているものもある。
有名な牛久城は後北条氏の築城術の典型と目されるが、私有地の中にあって、鬱蒼たる竹藪となっている、迂闊に入り込むと”タケノコ泥棒”に間違えられて飛んだ目に遭う。
史談会の様な研究団体を作って、地主の許可を貰って、入れば良さそうなものだが、何せ思い立ったら”吉日”方式で飛び出すから、その余裕がない。一〇〇〇カ所以上に古城跡を見て回るとなれば”単騎出撃”しかなくなる。
城郭用語に”根小屋”とか”根古屋”という言葉がある。丘とはいえ、山上の城は長期間も住むには適さない。米作りは平地で水の便が良くないと豊穣の稔りを手にすることは出来ない。平時には城主も戦闘用の砦から下りて、山麓の平地に住んだ。その山麓の集落を”根小屋”と呼んだ。
私が回った茨城県の中近世城郭跡の丘の麓には、必ずと言って良いほど”根小屋”があった。風雲急を告げれば、槍、刀、弓を手にして戦闘用の砦に籠もるだけでなく、兵糧用の米俵を背負って丘に駆け上がる。女性や子供もすべて山上の城に集められた。
蜘蛛の巣を振りはらい、足下を這う蛇に注意しながら、中近世の城郭跡を登るのは好きでなければ出来ない。だが、丘に頂上に立って女房に握らせた”おにぎり”を食べると、これ以上の愉悦感はない。寄せ手の軍勢と守りにつく軍勢の雄叫びが、風に乗って聞こえてくる。
中近世の合戦記録も古城址めぐりに欠かせない必読の書となる。それを読みながら、次はどこの古城址に行くか、思いをめぐらせる。杜父魚ブログの記事が時々、途絶えるのは、古城址で”おにぎり”を頬ばっている時である。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
3776 茨城県下に七五〇の中近世城郭跡 古沢襄

コメント