中国人が獣肉を食べていることは江戸時代から知られている。「遣唐使少しは牛も喰ひならい 日本の牛は畳のうへで死に」といった川柳も作られていた。
長崎の卓袱(しっぽく)料理は江戸や上方でも流行したが、これらの紹介の書には、中国人は鹿豕(ブタ)を食べることに言及しつつ、取捨選択が可能であることを断る記述が見られる。
明治になって開国すると、長崎に加えて横浜や神戸に中華街(南京町)が形成されたが、「支那うどん」「支那(南京)そば」と呼ばれたちゃんぽんやラーメンを除けば、日本人の間に中国料理は広まらず、1906(明治39)年時点で東京にあった中国料理店はわずか2軒であった。
いずれも貿易商や高級役人が利用する高級料理店であった。もっとも1906(明治39)年には東京の成女学校が毎週中国料理店から料理人を招いて中国語での料理講習会を行っている。
明治期に刊行された西洋料理書が約130冊であるのに対し、中国料理書はわずか7冊であったが、明治末年には肉料理も紹介されるようになった。
大正時代になって日本の大陸進出が進むと、中国からも民間人がやってきて一般向けの中華料理店が開かれることになった。中国料理は豚肉の普及と共に家庭料理にも取り入れられた。
1920(大正9)年頃からは新聞でも中国料理の紹介記事が増えた。1925(大正14)年から始まったラジオ料理でも青椒肉絲などが時々紹介された。(出典:『ウィキペディア』)
私は60歳までは刺身を食べられなかったので、それまでは料理といえば中華料理一辺倒だった。東京ではホテル・ニュー・オータニの大観苑が贔屓だったが、ここ20年ぐらいは赤坂・弁慶橋脇の「維新號」一辺倒。
きょう(8月8日)は園田直外務大臣と共に「日中平和友好条約」締結交渉のため特別機で羽田を発った記念の日である(1978年)。緊張していた所為で、釣魚台の迎賓館で何を食べたか、記憶が、全く無い。
田中角栄首相に同行して初訪中した時(1972年9月)には、北京の人民大会堂で時の周恩来総理に「海鼠の醤油煮」を生まれて初めてご馳走になった。
我々に先立って訪中したアメリカのニクソン大統領が遠慮したメニューだった。
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3781 中華料理の渡来 渡部亮次郎

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