■1.人生最期の朝■
南アフリカ生まれのオランダ人女性ジャネット・デルポートはかつて仏教に帰依する尼僧として日本に滞在していた。平成元(1989)年の12月のある朝、まだほの暗い中で目を覚まし、天井を見上げていると、自分の心が物悲しい気持ちで一杯になっていた。
それはこの朝が自分の人生最期の朝だと思っているからなのだ、と気がついた。とにかく起きなければ、起きて飛行服を着なければ、と思った。そう思いながら内心、私は何故こんなことを思わなければならないのだろうか、といぶかしく感じてもいた。
自分は誰なのか。起きあがって座りなおしてみると、私は私、ジャネットなのであった。しかしまた横になると、私は若々しく健康な軍人であるような気がした。そして自分が両膝の間に操縦桿を握りしめて、煙と炎の中を突っ込んでいく姿が心に浮かんだ。
ジャネットはこの不思議な体験から、いろいろと調べていくと、自分が感じたのは神風特別攻撃隊のパイロットだ、と思い至り、その第一号が関行男大尉であることを知った。関大尉率いる敷島隊5機は昭和19(1944)年10月25日フィリッピンのマバラカット飛行場を飛び立ち、レイテ近海にて敵艦隊を急襲、空母1隻撃沈、3隻に損害を与えるという戦果を上げた。
ジャネットは遠く離れた南アフリカで自分が母の胎内に宿ったのは、関大尉が戦死したのとちょうど同じ年、同じ月だった事を知る。
■2.愛する妻を守るために死ぬんだ■
ジャネットは特攻に関する研究を続けた。
6年にわたって特攻隊関係の資料をさがしあつめ、同時に仏教の尼僧として心をこめてお経をとなえつづけ、しかもあちこちの特攻戦没者を祭ってある神社やお寺を訪れていると、はじめは研究をしていたのに、いつのまにか特攻隊員の心の軌跡をたどっていくようになりました。
ジャネットのたどった関大尉の心の軌跡は次のようなものだった。
関行男大尉が、特攻の計画を知らされたのは、10月19日の夜だった。その隊長に選定されたと言われ、返事を求められた時、それほど戦況が悪いのか、と疑問を抱き、また一人暮らしの母や、5月に結婚したばかりの妻の事を一瞬思ったが、「はい。ぜひ私にやらせて下さい」と答えた。江田島の海軍兵学校に入った時からずっと、自分は戦死するだろうと考えていし、フィリピンに赴任する前には、従弟に、私は多分戦死するだろうから、その場合は母のことをよろしくと頼んでいた。母や妻への遺書を一気に書き上げた。
満里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対しては誠にすまぬと思って居る。何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分できている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活をしていく様、色々と思出をたどりながら出発前に記す。恵美ちゃん(妻の妹)坊主も元気でやれ。行男
翌20日の夜は、妻に送ってもらうための写真をとってくれた同盟通信記者の小野田政記者と川のほとりを散歩したが、気を許して、僕は天皇陛下や帝国のために死ぬんじゃなくて愛する妻を守るために死ぬんだ、と少し冗談めかして話した。
■3.一瞬でも目をつむったら、命中できないだろう■
血気にはやって敵中に突っ込むことは簡単だ。そんなことは誰にでもできる。要は、つねに頭を冷やし、何事にも冷静に対処することだ。
関大尉はこう語っていたが、ジャネットが何度もの夢と、調べた資料から思い描いた関大尉の最期は、まさにこの言葉通りだった。
21日、出発したが、悪天候のために敵機動部隊を発見できずに帰還した。決意も固く飛び立ったのに、生還したのはとても苦痛だった。
25日の朝、今日が最期の日だと分かって、ほっとした気持ちだった。私の大切な家族と故郷の安危がかかっているのだ。操縦には自信がある。きっと命中してやるぞ。
午前7時25分、離陸。このとき初めて私は泣けてきた。「お母さん。満里子・・・」とつぶやきながら、涙を、生きて流す最後の涙を、ぬぐいもせずに飛び続けた。
敵のレーダー電波を避けるために低く飛ぶ。そして3千メートルまで上昇してから、機体をひねって急降下に移る。敵は対空砲火を打ち上げてくる。目をしっかりと見開いていなければならない。一瞬でも目をつむったら、命中できないだろうと先輩パイロットは教えてくれた。しっかりと空母の飛行甲板に狙いをつける。猛烈な弾幕を突破する。恐怖心など、とっくの昔に突破した。
■4.甲板には大穴があき、火災が発生した■
空母カリニンベイの戦闘記録によれば、関大尉と思われる一番機は胴体下の爆弾を投下して急上昇するものとの予想を裏切って、そのまま飛行甲板前部に体当たりした。
突入と同時に、火炎が噴き上げ、激しい熱気が飛行甲板にみなぎった。しかしながら、それは爆弾の破裂によるものではなかった。甲板には大穴があき、火災が発生した。体当たりした零戦は粉々になったが、胴体部分は飛行甲板前方をくるくる転がって行き、左舷側から海に転落した。
250キロ爆弾は胴体下から離れ飛び、炸裂しなかったのである。2番機、谷暢夫一飛曹は、関大尉による第一撃が十分な効果を上げなかったのを見るや、最初からの指示通り、ほぼ同じ処に突入し、空母は炎上して炎と煙を噴き上げた。
他の一機に突っ込まれた空母セントローは、格納庫内の飛行機が次々と誘爆して、5分ほどで沈没してしまった。残る2機はそれぞれキトカンベイとホワイトプレーンズに命中して、損傷を与えた(ただし、どの機がどの戦果をあげたかについては、諸説ある)。この史上最初の神風特攻は豊田連合艦隊司令長官によって全軍に布告され、関大尉は中佐へと二階級特進の栄誉を与えられた。
■5.穏やかでクール■
ジャネットは欧米人の書いた文章のなかにも、特攻隊員の心情に共鳴したものが少なくないことを知る。
入手できた記録文書、日記、手紙、写真などすべてを見て感じることは、彼らが物静かで真面目で、教養の面でも判断力の面でも優れた人たちであったということである。日本の資料には、彼らのことを「冷静であった」と書いてあることが多い。冷静とは、現代ふうにいえば穏やかでクールなことを意味する。(イワン・モリス、「失敗の高貴」)
そのクールさで、彼らは何のために自らの生命を捧げたのか? ジャネットは次のように指摘する。
しかし、特攻戦法が実行に移されたときに、それは勢力圏の拡大、領土獲得、あるいは栄光の夢のためだったのではなく、侵攻を阻止し祖国を守るための最後の手段であったことは、歴史的にあきらかである。
■6.報恩のこころ■
特攻は自殺ではない。死ぬことは手段であって、目的ではないからだ。ジャネットはこの点に関して、コルトという人の書いた論文の一節を引用している。
よく知られているように、犠牲死は紀元2世紀のころ、荒れ狂う海の神を鎮めて、夫である日本武尊(やまとたけるのみこと)の舟がぶじに航海できるようにと、海に身を投じた后の弟橘姫(おとたちばなひめ)の例が記録に残る最古のものである。
紀元2世紀のころの弟橘姫から、20世紀の特攻隊員までに共通する日本人の心情を思いやったイワン・モリスの次の文章をジャネットは自著の冒頭に掲げている。
戦闘における戦士の心理を説明したり、納得したりしようとする際によく言われる、敵愾心や戦死した戦友の仇討ちをしたいという願望は、特攻隊員の心の中に重きをなしていなかったように思われる。・・・
むしろ彼らの言葉は、日本人として生まれてこのかた受けた恩恵にたいして、報恩をしなければならないという気持ちを表現しているのではないだろうか。恩恵を受けてきた、今も受けているという気持ちと、いざという時に必要とあればどのような犠牲を払っても、その恩に報いたいという気持ちが、平戦時を問わず何世紀にもわたって、日本人のモラルの力強い底流をなしていたと思うのである。
■7.報恩の心は戦後日本の再建に向けられた■
特攻隊員の示した報恩の心は、戦後日本の再建に向けられた、とジャネットは思い至る。終戦当時、広東省海南島にいた特攻艇「震洋」の隊長は次のような言葉を残している。
終戦の際、私の隊は悲しみに沈んだが、別に変わったことは起きなかった。これを見て私は、いつものとおり訓練の続行を命じた。これは、隊員の士気を維持する効果があったと思う。
訓練の終わりに全員を集め、これからどうするか、皆が対等の立場で議論することにした。そして、命令に服従せず戦い続けるか、全員自決するか、それとも他の特攻隊で死んでいった戦友の犠牲を無にしないよう生きて日本のために働くかの三つの道がある、と話した。
思ったとおり、部下たちは三番目のいき方に賛成したが、このような人たちの献身的な活動が、戦後日本の迅速な復興に大きく寄与したと確信する。・・・
日本が戦後に偉大な復興をとげることができたのは、戦死した多くの人たちのおかげだと、私は信じている。
「きっと、英霊の御霊が戦後の復興に力を添えて下さったのでしょう。」とジャネットは語る。
■8.あなたの御霊に、語りかけた■
一人残された関行男中佐の母サカエさんは戦時中こそ「軍神の母」ともてはやされたが、戦後は一転して、世間の冷たい視線を受け、日々の生活にも困窮して、昭和28年に亡くなられた。「せめて行男の墓を…」との遺言によって、翌29年、ようやく関大尉の墓ができた。
カナダに移り住んでいたジャネットが「四国の愛媛に行け」という内なる声に従って関中佐の生まれ故郷西条と墓のある伊予三島を訪れたのは、平成7年5月のことだった。伊予三島では関中佐が幼い頃遊びに来た事もあるという親戚の家にあがり、手紙や写真を見せて貰った。その中には、結婚写真もあった。
何とすてきなカップルでしょう! あなたは海軍の黒い軍服に剣をつって、すらりと立っており、日本髪に角隠しをつけた婚礼衣装の満里子さんは椅子にかけています。
写真のカバーには、筆字で「結婚記念、昭和十九年五月三十一日」とありました。これは多分、あなたの筆跡でしょうね。
ああ、関中佐。お二人の若々しい、かしこまったお顔を見ていると胸が迫り、またもや泣き出しそうで、息をひそめる私でした。
さらにジャネットは関中佐の墓を訪れる。
恥ずかしくてはっきり声に出してあなたに話しかけることはできませんでした。でも、あなたはわかって下さったでしょう? 私が心の中であなたに、あなたの御霊に、語りかけたことを。
そして私はあなたの戒名を書き写しました。カナダに帰ってからも、あなたにお経を上げて差しあげることができるようにと。
■9.人間の偉大さ、気高さ■
ジャネットは、バーナード・ミロットの特攻隊に関する著書の次のような結びを引用する。
特攻隊員の犠牲は、他の戦争での生命の犠牲と同様に無駄であったかもしれないが、あの日本の英雄たちは、世界に向かって純粋なかたちで大きな教訓を与えてくれた。彼らは歴史の深みの中から、忘れていた人間の偉大さ、気高さを掴み出して見せてくれたのである。
カナダに帰ったジャネットは、著書のエピローグを次のような関中佐の言葉で結んでいる。
今度、西条へ行ったら、雨が降ったりしていなければ、川のほとりの武丈公園へ行って、私のことは考えずに星空を見上げなさい。私はそこの桜の木の間にいる。ただし、私を知るには、まず星空を見上げなくてはならない。
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3790 ジャネット・デルポートと関行男大尉 伊勢雅臣

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