3798 信州・上田の母の実家 古沢襄

旧盆が明けた17日から二泊三日で信州・上田に旅行に出る。上田には母の実家がある。小学生の頃は夏休みは上田で過ごした。戦争が激しくなり上田に疎開して、旧制中学の一年から四年まで上田中学で学んだ。その同級生も七十八歳、鬼籍に入った人も多いし、病床に臥している人もいる。
母の実家は上田市のど真ん中にある商家。木村といった。先祖は宝永三年(1706)に兵庫県の出石から上田に移封された松平忠周の家臣。百五十石取りだったが、三代目の義哉が七歳の折、大政奉還があった。武士は失職し、大変革の時代に裸で放り出されたことになる。
変革の時代には女の方が強い。義哉の母は、これからは商人の時代になると言って、十二歳の義哉を伝手をたどって東京の商家に奉公人として出した。義哉は十九歳まで東京で商売のコツを覚えて上田に帰った。
当時は士族の商法といって、職を失った武士の多くが商売に手を染めたが、頭を下げてモノを売ることに失敗する者が相次いでいる。だから”士族の商法”と揶揄されている。義哉は東京で商人の腰の低さを身につけている。最初は上田市の北にある土橋の地で小さな瀬戸物屋を開いた。利の薄い固い商売である。
私の曾祖父に当たる義哉は商才があったのだろう。いつの間にか店は大きくなり、上田市の中央にある原町に店を移して、茶碗の商売から土管、煉瓦など建築資材の商売にまで手を広げた。原町は今では上田市中央。上田駅から坂をのぼり、郵便局あたりで平坦な道になる。道の両側に商店が並んでいる。
私が小学生の頃は、店には一番番頭から三番番頭までいて、女中さんを含めると三十人近い大所帯になっていた。瀬戸物は利益が薄い商品といわれる。店の裏には三つの蔵が並び、仕入れた瀬戸物が俵のまま積んであった。戦争景気でインフレが進むと、安く仕入れた瀬戸物が高値で売れる様になった。
上田一の瀬戸物屋が、いつの間にか長野県でも一、二を争う商家になった。瀬戸物屋ではなくて、食べ物屋の商売だったら、これほど大きくはならなかっただろう。関東大震災で上田の店の壁にまで小さな亀裂が入った。義哉爺さんは有りったけのカネを集め借金までして、瀬戸の窯元を走り回って窯ごと買い付けている。
このあたりの商才は並の人ではない。開業十年にして「全国商士人名録」に木村義哉の名が出ている。三つの蔵に俵積みされた陶磁器がインフレによって資産価値がハネ上がるというのは、時流に乗った僥倖の商売といえる。
だが、これはデフレ、不況の時代が長引くと逆に作用する。売れ筋の商品を見分けて、それを集中管理する商法が必要になる。三つの蔵に陶磁器を積み込んでおく商法は時代遅れとなった。曾祖父から四代目の当主はコンピューター管理する新たな商法を模索している。地方都市の老舗といわれる商家が共通して抱える課題といえる。
三代目は母の弟だが、無名の陶芸家の才能に目をつけている。もともと画才がある人で、浅間山を画材とした油絵を描いている。上田が生んだ鬼才・林倭衛の画風に目をつけて、上京すると銀座に日動画廊に足を運び、林倭衛の油絵を求めていた。おそらく林倭衛の絵画の所蔵家ではトップだったろう。
その眼力で信州だけでなく、九谷、瀬戸、京都(清水焼き)、有田の新進陶芸家の作品を蒐つめていた。「これは将来、ものになる」と言って、私は無名の陶芸家の「ぐい呑み」を叔父から貰った。手元には十数点あるが、いずれも名の知れた陶芸家になった。
その真似をして私も「ぐい呑み」を集めた時期がある。赴任地が金沢、博多だったので、閑をみては窯元に足を運んだ。値段が三百円程度の作品ばかりを漁ったが、目利きでないから叔父の様にはいかない。飾り棚に置いてあるのは、すべて叔父から貰ったものばかり。
目利きで商才があれば、インフレ頼みの商売から脱することが出来る。だが、母と同じ脳血栓で倒れ、母より先に亡くなっている。惜しい人物であった。
私の祖母は上田小町と評判だった美人。曾祖父の義哉爺さんの一人娘で、東京外語のロシア語学科を出た人を養子に迎えている。二代目は鄙にも稀な知識人だっただけでなく、商才にも長けていた。私の中学時代はもっぱら二代目から勉強の仕方を教えられた。学校では教えてくれない社会学と称して学んだ教訓は、この年齢になっても忘れない。
振り返ると義哉爺さんから四代にわたる当主はいずれも商才に長けている。しかし、商家が大を為すには、当主の商才だけではない。もっと大きな時代の流れによって左右される。私の様にペン一本で立つジャーナリストには、到底、達することが出来ない世界である。
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