3809 イエズス会日本布教始末記 平井修一

1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラら7人が「イエズス会」を結成してから475年になる。高等教育の普及、宣教活動、プロテスタントの拡大に対するカトリックの防衛が3大目標だった。以下、<出典>がない記述はウィキを参考にする。
イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は・・・ポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた。
ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。2年滞在して困難な宣教活動に従事した。
彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。
日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。・・・有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。
小生が思うにイエズス会の宣教師といっても千差万別で、大の日本嫌いが1570年に来日したカブラルである。
<カブラルは日本布教長に就任して日本の実情を見、日本人と接しているうちに、布教事業にはなはだしく悲観的になり、かつ日本人を嫌悪するに至った。
彼は、日本人ほど傲慢で貪欲で不安定で偽装的な国民をこれまで見たことがない、といい、日本語は南蛮人宣教師にとって習得不可能な言語であり、日本の風習は野蛮であり、ヨーロッパのそれは高尚であるとみなした。
そして、日本人を改宗させるには、まず南蛮貿易の好餌をもって諸領主を教会に導き入れ、彼らをして領民を挙げてキリシタンとさせ、神社仏閣を破壊させるをもって賢明の策と考えた。
・・・ヨーロッパの学問、南蛮人同士の会話が聞き取られぬようにするため、日本人がポルトガル語やスペイン語を学習することを禁じた>(「フロイスの日本覚書」)
イエズス会はポルトガルの世界制覇の尖兵でもあったから、袈裟の下に鎧は見え隠れする。秀吉はそれを喝破していたのだろう。
1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであったが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目をむけた豊臣秀吉は1587年にこれを取り上げて直轄領とした。
日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、イエズス会は日本からの撤退を余儀なくされた・・・云々。
八百万(やおよろず)の神の日本における現在のカソリック信者は45万人で、日本本来の神道と仏教が圧倒的多数である。カソリックが侵略の手段としてイエズス会を利用しようとしたことを危険と見た秀吉、家康は先見の明があった。おかげで日本文化が花開いた。
中共におもねる軽薄短小の政治家ばかりだが、国家百年の計を国民ともども考えてほしいものである。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト

コメント

タイトルとURLをコピーしました