3833 しょうせき・日の丸・赤紙の「八月」 岩見隆夫

毎年、八月は回顧、反省、怒りが入りまじった複雑な気分の月である。広島(六日)、長崎(九日)、敗戦(十五日)と三つの古い日付が焼きついているからだが、それも年とともに微妙に移り変わってきた。当然と言えば当然だ。
しかし、今年の夏はどこか違う。唯一、核兵器を使用した国の、
「道義的責任……」
に言及し、核のない世界を訴えた歴史的なオバマ・スピーチが、核廃絶運動にはずみを与えている。逆に核武装国を自称してカサにかかる北朝鮮が一段と目ざわりだ。そして、政権選択を?けた衆院選の大詰め、何かが変わりそうな予感のなかで、八月が過ぎていく-。
ところで、落語の三題噺ではないが、戦争にまつわる三つのことを書きたい。三つには、とりあえずまったく関連がない。
まず、またも飛び出した麻生太郎首相の漢字読み違いだ。九日、麻生さんは長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典でのあいさつで、
「七万ともいわれる尊い生命が、一瞬にして失われました。一命をとりとめた方も、癒やすことのできない傷跡を残すこととなられました。……」
と述べた際、傷跡を〈きずあと〉でなく、〈しょうせき〉と読んだのである。何ということだ。一命をとりとめた方が聞いても、意味が通じない。
新聞の小さな記事でそのことを知って、私は非常に腹が立った。またか、でなく、これは許せない。麻生さんに対してではない。麻生さんはもうあきらめている。わざと読み違えたわけでもあるまいから。
先日、河村建夫官房長官から話を聞いた時、
「あの方(麻生さん)は〈英語脳〉といわれるけど、本当にそうなんです。難しい漢字にぶつかると、まず相当する英語が先に口に出て、それから日本読みという順番だから」
と言っていたが、多分そうなのだろう。傷跡が難しい漢字とも思えないが、仕方ない。
怒りを覚えるのは、首相を補佐する人たちの恐るべき怠慢だ。下読みさせるとか、大きなルビを必ずふるとか、なぜきちんとやらないのだ。そばにおれば、これは間違えそうな漢字だ、とわかるはずじゃないか。しっかりしろ。
次は、社民党の福島瑞穂党首のもとに、先日米国から届いた〈日の丸〉の旗をめぐる珍しい物語だ。これも一部メディアですでに伝えられたが、私は第二次大戦を戦い、生き残った一人の老米兵の心情に、心ゆさぶられるものがあった。
◇一枚の紙で戦地に赴く戦争のむごさと不条理
話は一九四三(昭和十八)年まで戻る。この年、福島さんの父、福島行人さんが出征した。十八歳だった。熊本県立商業学校のクラスメートたちが当時の慣行で、大きな〈日の丸〉に名前の寄せ書きをした。〈武運長久〉や〈米英撃滅〉などの文字もある。
それから六十六年の歳月が流れ、六月初め、アイオワ州在住のロバート・D・バックナーさんから幸山政史熊本市長のもとに届いた手紙によると、バックナーさんは硫黄島で戦った第二海兵師団の生存者で、戦後、熊本市の郊外に進駐した。ある日、戦友たちと故郷に送る〈日本のもの〉を手に入れるため、野営地近くの小さな村を訪ねた。一軒の家で〈日の丸〉を見つけ、女性にたばこ一個との交換を申し出ると、承諾されたという。
帰国後しばらくして、バックナーさんの街に来た日本の旅行客に〈日の丸〉をみせると、
「あの時代にはよくあったもので、家族の歴史の記録です」
という話だった。その後も大切に保存していたが、女性の子孫にとって大きな意味を持つものだと思い、幸山市長に子孫捜しと〈日の丸〉の返還を頼んできたのだった。捜したところ、出征兵士の娘が福島さんとわかり、先日、〈日の丸〉が届けられた。
福島さんによると、渡した女性は祖母のアキさん、父の行人さんは復員後、銀行員をしていたが、昨年暮れに八十二歳で亡くなった。戦後の熊本も爆撃で廃虚に近かった。なぜたばことの交換に応じたのか、と思ったりする。バックナーさんは、手紙で、
〈(進駐軍に)攻撃もしくは殺されることもあると日本政府は言っていたので、彼女は恐れていたのかもしれない〉
と気づかっているが、多分そうだったのだろう。月日を経て、元兵士の思いやりが戦争の傷跡(しょうせき、ではない)を癒やしてくれる。遊説中の福島さんのケイタイにかけてみると、
「祖母はこわくて抵抗できなかったのじゃないかと思います。切ないですね。でも、バックナーさんはやさしくて、祖母の立場も配慮してくれていますし、生きているうちにどうしても渡そうと。なんという歴史の奇遇か、とも思いました。感謝の手紙、書きましたよ」
ということだった。
三つ目は、恒例のようになっているテレビの〈終戦もの〉、全部観たわけではないが、十日、TBS系列で放映された〈最後の赤紙配達人-悲劇の召集令状〉は戦争のむごさが改めて迫ってきて、胸が痛んだ。二時間のドラマ仕立てドキュメンタリーである。
赤紙一枚で戦地に赴く不条理は、何度聞かされたかわからないほどだが、本物の赤紙を見たのは初めてだった。配達人は役場で〈兵事係〉と言ったそうだ。滋賀県大郷村(現長浜市)の兵事係は一人だけで、いまも生きている。西邑仁平さん、百四歳だ。
西邑さんは敗戦時、軍からの焼却命令に従わず、応召者名簿などの書類をリヤカーでひそかに自宅に運び、戸棚に隠していた。ドラマはこの実物の書類をもとに展開される。大郷村では、西邑さんが渡した赤紙によって出征したうち、二百六十二人が戦死した。
三年前、百歳を過ぎて西邑さんは初めて書類を公開する。長年、軍令に反したことを悩んでいたのだろうか。「配達に行くたびに涙がこぼれましたね。運命だから、とはいえ……」
とドラマのなかで言葉少なく語っていた。
しょうせき、日の丸、赤紙、とりあえず関連がない、と最初に書いたが、あの戦争は何だったのかについて、まじめに考えを深めるよすがになる、という意味では共通性がある。(サンデー毎日)
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