毎日新聞編集局顧問の岩見隆夫さんが怒った。
<またも飛び出した麻生太郎首相の漢字読み違いだ。9日、麻生さんは長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での挨拶で、「7万ともいわれる尊い生命が、一瞬にして失われました。一命をとりとめた方も、癒やすことのできない傷跡を残すこととなられました。……」
と述べた際、傷跡を〈きずあと〉でなく、〈しょうせき〉と読んだのである。何ということだ。一命をとりとめた方が聞いても、意味が通じない。
新聞の小さな記事でそのことを知って、私は非常に腹が立った。またか、でなく、これは許せない。麻生さんに対してではない。麻生さんはもうあきらめている。わざと読み違えたわけでもあるまいから。
先日、河村建夫官房長官から話を聞いた時、「あの方(麻生さん)は〈英語脳〉といわれるけど、本当にそうなんです。難しい漢字にぶつかると、まず相当する英語が先に口に出て、それから日本読みという順番だから」と言っていたが、多分そうなのだろう。傷跡が難しい漢字とも思えないが、仕方ない。
怒りを覚えるのは、首相を補佐する人たちの恐るべき怠慢だ。下読みさせるとか、大きなルビ(仮名)を必ずふるとか、なぜきちんとやらないのだ。そばにおれば、これは間違えそうな漢字だ、とわかるはずじゃないか。しっかりしろ。>
私は昔「しっかりする」側に居た(外務大臣秘書官)のだが、なかなか「しっかり出来るものではないのだ。せいじを家を常に見ているジャーナリストたちだが、所詮「外」からしか見えてない。「内」では困惑しているのだ。
結論からいえば、ご本人の「低学力をルビでは補えない」のだ。
私の付いた大臣は旧制中学(小学校卒業後5年制)卒業者。世間では郷里の将来の指導者と期待されたもの。当然、「読み、書き」(国語)算盤(算数)には十分通じた人間として、一段高く見られた。
既に連続当選10回以上のベテラン代議士。衆議院副議長、厚生大臣、官房長官を経ての外務大臣。麻生総理大臣並みに漢字を知らないとは想像できなかった。
或る時、朝食を共にしながらの雑談でさかんに「さつじん」を連発しながら映画の話をする。さつじんとは殺陣(たて)のことなのである。「大臣、それはタテというものでしょう?」とは失礼だから言えない。初めから殺陣=殺陣、と分かっていたように装って聞き流した。
殺陣(たて=演劇や映画で、闘争、殺人・捕物などの格闘の演技。立ち回りのこと。殺陣師はその演技を振付ける指導者)広辞苑。
話をきいていると、また「しきれつ」という。熾烈(熾烈)を誤まって「しきれつ」と覚えてしまったのであろう。似た様な誤りに「旗幟鮮明」(きしせんめい)がある。旗とのぼり(幟)の色をはっきりさせる、敵か味方かを鮮明(はっきり)させることである。
ところが大臣閣下は「きし」を「きしょく」と誤まって覚えてしまった。若くして衆議院議員になって階段を上ったから回りは誰も注意できないまま70歳になったのである。
外務大臣の行なう演説は各局の担当課長が起案し、次第に上に上がって決裁をうけながら練られてゆく。最後、事務次官の決裁で決定するが、あの時代は、大臣の指示で最終的な添削は秘書官たる私が行なう事になっていた。「話し言葉」でニュースを書いていたNHK政治記者の経験を買われたものである。
それでも失敗した。やはり役人が下書きを書いてくるものだから漸次とか暫時とかと言った硬い漢字が使われる。優しく書き換えるのだが、あまり中学生程度に理解度を下げると演説そのものの格調の下がってしまう。
第1回国連軍縮特別総会で、大臣は漸次も暫時のすべて「ざんじ」と読んでしまった。演説は何ヶ国語かに同時通訳されるが、通訳は区別して通訳したようだったし、日本のマスコミには正確な日本語のコピーが事前に配られたから問題はおこらなかった。
気がついて恥ずかしく思ったのは演説原稿を筆ペンで清書した私だけだった。
以後はさらに注意して、ルビを振るようにしたが、何でもかんでもルビを振るわけにはゆかない。「ワシだってこれぐらいの字は読めるよ」といわれても困る。では大臣はどの字とどの字を読めないか、判定することは殆ど不可能だ。麻生側近だってそうだろう。
まさに「低学力をルビで補うことは不可能だなぁ」と言う憂鬱な気持ちになったものだ。麻生側近もそんな気持ちかもしれない。でも、心を入れ替えて最後まで補う努力をするしかないのである。
再度言うが、演説原稿にはルビは振れるが、原稿のない演説や会談や座談で大臣の口に戸はたてられない。当に「綸言、汗の如し」。漢字を読めないで政権を失ったとは言われたくないものだ。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
3844 低学力をルビでは補えない 渡部亮次郎

コメント