私が天才作曲家と呼んでやまない古関裕而(こせき ゆうじ)の今年は生誕100年であり、郷里福島県では様々な催しものが展開されている。
ところが彼は戦時中、多数の軍歌を作曲した故を以て作曲界の大御所だった高木東六は死ぬまで古関の悪口を言い続けた。天才ぶりがよほど堪えたのか、さすがに学歴の無さには言及しなかったが、私には実にハラの立つ悪口だった。自身も「空の神兵」を作曲しているくせに。
高木は、演歌や歌謡曲に関しては、終生、「喜びや笑い、ユーモアがない」や「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど、批判的な意見で有名だった。
一方の古関裕而 1909(明治42)年8月11日―1989(平成元)年8月18日)は、作曲家だったが、それらしい学歴はなくすべて独学でやり遂げた。本名は古關勇治。従五位勲三等瑞宝章、紫綬褒章受勲受章。
福島に住みながら仙台に通い、金須嘉之進に師事した。金須はリムスキー=コルサコフの弟子。正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んだ。
古関はこの師金須をたいへん尊敬し、自分がリムスキー=コルサコフの孫弟子になることを誇りとしていた。
1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家。
それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。倒産した一族を養うためクラシック畑からポピュラー畑に転進し、多数の軍歌、歌謡曲を作曲」した。
早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」が有名。
全国高等学校野球選手権(甲子園)大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲おろし」)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、東京五輪のオリンピックマーチなどの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ、和製スーザ(行進曲王)と呼ばれる。
NHKで使われているテーマ曲も多くは古関の作。スポーツ中継の冒頭に流されるスポーツ行進曲は一番親しまれている。気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。
福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に生まれる。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。
裕而は幼少の頃から、ほとんど独学で作曲の道を志していく。天才の所以だ。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって裕而とともに数々の名曲を世に送り出すこととなる。
戦争の色が濃くなると、音楽関係者らも軍歌・戦時歌謡を作らざるを得なくなった。古関も戦時歌謡で数々の名作を残している。古関メロディのベースであったクラシックと融合した作品は、戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律のもの(愛国の花、暁に祈る等)も多かった。
それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。古関自身、前線の悲惨な体験や目撃が『暁に祈る』や『露営の歌』に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ散花した人への自責の念を持ち続けていた。
戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌『長崎の鐘』。
戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』。戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた『オリンピック・マーチ』。
現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌『栄冠は君に輝く』。その他にも『フランチェスカの鐘』、『君の名は』、『高原列車は行く』などの格調高い曲を多く創作した。クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心を捉えた。
テノールの美しい音色と格調のあるリートのベルカントで歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。
劇作家の菊田一夫と名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルのヒット作品を世に送り出した。1961年に菊田と手がけた森光子主演の放浪記は現在も公演記録を伸ばし続けている。
また、戦後の古関は、クラシック音楽の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。
半寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日死去。盛大な音楽葬が催された。生前、早稲田大学、慶應義塾大学の応援歌を作曲していた古関のために、参列した両大学の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、古関の棺は、左右からさしかけられた両校の校旗をくぐって、多くの参列者に見送られた。
福島県福島市最初の名誉市民で、同地には1988年11月12日、「古関裕而記念館」も建てられている。本人はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。
2009年8月11日、生誕100年を記念し、モニュメントが地元福島市の駅前に設置された。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が愛用のオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、1時間おきに古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。出典:「ウィキペディア」
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コメント
昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。
ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。
留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。
この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。
つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。
単にクラッシックどうこうとかではないのだ。
どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。
でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。
彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ-な曲がでていないのだ。
歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。確かに古賀政男との対比でみるとそれはよくわかるのだ。
古関がヒット曲が出ないで悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)
「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。
苦しい立場に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。
それは、クラシック音楽を基調にした古賀自身のことでもあったのだが、コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。
彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。
作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ-な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなことだろう。
コロムビアの中でずっとヒット曲がでず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が居場所を得て活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。
古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ-な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。
主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。
そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。
昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。
後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。
楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。
なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国でした、訂正します。ドイツ留学したのは山田耕筰です。
本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。
しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。
また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。
[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。
こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。
日本の本格的「レコード歌謡」は、昭和3年(1928)、佐藤千夜子の歌った「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、ビクター)にはじまった。
洋楽に属するクラッシック音楽を基調としたものだが、歌うことを目的とした点で、詩を持つ点で、演奏を目的とした協奏曲、組曲等クラッシック曲と決定的に違う。
「レコード歌謡」が、これまでの、純粋のクラッシック音楽と違うのは、作詞家・詩人、それに歌手の存在である。
最終的には文芸部が指揮をとるのだが、「作曲家」の腕の見せ所でもある。
「三分間の芸術」と言って、三分という短い時間で聴く人に訴えかける新たな大衆音楽芸術、それが「レコード歌謡」(流行歌)というもの。
当初、ビクタ‐の一人勝ちで始まったヒット競争は、古賀メロディの登場によって、コロムビアに移る。
この佐藤千夜子の力添えで、メジャーデビュ‐を果たしたのが古賀政男(古賀正男)。
当初、作曲家であることに自信が無かった古賀が、まもなく「古賀メロディ」で決定的な影響を及ぼす一人の詩人と出会う。
詩人の名は佐藤惣之助、昭和7年の事だった。
古賀の自伝には「三人の詩人」として、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローの名を上げている。
古賀の自伝には、「私が、《作曲の醍醐味》を知るのは惣之助さんと出会ってからである。」とある。佐藤惣之助とのコンビでたくさんの名曲が生まれる。
昭和8年(1933)には、「ビクター専属」の西條八十と、「コロムビア専属」の古賀政男との間で、専属を超えた二巨匠の歴史的交流が始まる。詩人・西條八十と古賀政男の最初の出会いとなる。
「サーカスの唄」は、この時の作品。こんな素晴らしい詩に私が曲を付けることはできません」、と詩を返そうとした古賀に、八十は「あなたに曲を付けてもらうことができなければ、この詩は棄てる。」とまで言われ、あの歌ができたという。
歌手や他の作曲家などから、いつも「古賀先生」と呼ばれていた古賀が,終生《先生》とよんだ詩人。西條八十と古賀政男の黄金コンビは戦後、八十の亡くなる昭和40年代まで続いた。
また、詩人・サトウハチローとのコンビも、『恋は荷物と同じよ』の、日本最初のミュージカル映画「うら街の交響楽」(1935日活、第1回「全日本映画コンクール」受賞作)から始まる。
こうして古賀は三人の詩人との関係も、古関がヒットがでなく悶もんとしていた昭和一桁代にも作り上げてゆく。
古賀は「詩はお姉さん、曲は弟」と、詩を大切にした事で有名、圧倒的に多くのヒットの多い古賀メロディの秘密である。
古関氏と対照的に、昭和の初めから戦中、戦後を通じて、数え切れないほど圧倒的多くのヒット作品を持つ古賀政男。
そのほとんど、多くが「映画主題歌」でもある。(後から映画が作られたのもある。)
実は、「古賀メロディ」には沢山の「映画主題歌」があって、「想い出多き女」(酒は涙か溜息か、昭和6年)など、無声映画の時代から戦後まで途切れることなく、数え切れないほど多くある。
そして、映画主題歌等の多くは、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなどによって書かれた。
まだテレビもなく、映画とラジオ位しか無かった時代、日本が未だ貧しかったその時代は、日本映画黄金時代だった。
《東京ラプソディ》も、《緑の地平線》、《女の階級》、《人生の並木路》(日活「検事とその妹」)も《目ン無い千鳥》(日活[新妻鏡])などみんな映画主題歌。
「古賀メロディ」というのは、映画を離れて、その独立した一曲にも値するような前奏・間奏・後奏。
その三分間のドラマの中に、聞く人を引き込み、それぞれの人生を重ね合わせる事が出来るのはすばらしいことではないでしょうか。
昭和3年、人生の苦悩から始まった「古賀メロディ」、「古賀メロディ」には人生・青春を歌ったものが多い。特に、「影を慕いて」「人生の並木路」など人生の、青春の苦悩をテーマとしたものが多い。
人生を真面目に生き、作曲にも真面目に取り組んだ、それが「人生の並木路」などにもみられる。
それが同時代の、聞く人の日本人の「心の琴線」に触れ共感を与えた。
何と言っても昭和の歌謡史に今も残る三人の詩人をはじめとした多くの詩人・作詞家との交流。
東京音楽学校首席卒業の藤山一郎、関種子(昭和6年~)をはじめとして、淡谷のり子、霧島昇、楠木繁夫、松平晃、ミス・コロムビア、ディックミネなど沢山の歌手とその育成・・
人生の苦悩から始まった古賀メロディ、一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指した古関・・。
そして何と言っても、残念なのは断片的で、一貫したテーマというの