医療ミスや有名人の死亡を報道する記事の中で、死亡原因に触れた部分で、時々「ん?」と首を傾げるケースが少なくない。例えば、【時事 2009/08/25-17:01】
<聖マリアンナ医科大学病院(川崎市宮前区)で、心筋梗塞(こうそく)で入院していた70代の男性患者に対し、静脈に入れるべきカテーテルを誤って動脈に挿入、2日後に患者が死亡していたことが今月25日、分かった。同病院は神奈川県警などに事故を届け出た。
同病院医療安全管理室によると、患者は今月中旬、心臓の大動脈弁を人工弁に置き換える手術を受けた。術後、栄養を直接投与するため頸(けい)静脈からカテーテルを挿入する際、誤って頸動脈に挿入。先端が人工弁の中に入り、心不全を起こした。直ちに人工心肺を取り付けるなど緊急処置をしたが、患者は2日後に死亡した>
この“事件”について、産経新聞は26日、ほぼ同じ経過を書いた後<担当医は30代ベテラン>と書き加えている。
疑問点がいくつかある。
まず、心筋梗塞で入院した患者であれば、心臓血管外科医が胸を開き、冠動脈の梗塞した部分をまたぐようなバイパス手術を行なう。または循環器内科医がカテーテルで狭窄した部分を開通させ、網状の金属の管(ステント)を挿入する。このどちらかの治療法を採る場合が多い。ところが、記事によれば、<心臓弁を人工弁に置換した>という。
心臓には4つの弁があるが、まず弁置換の手術が多いのが大動脈弁だ。これは筆者が10年前に経験している。次が、左心房と心室の間にある僧帽弁の不具合で、橋元龍太郎元総理が置換手術を受けている。
つまり、心筋梗塞と弁置換手術はまったく異なる手術なのだが、記事を書いた記者はその区別がついていなかったらしい。心筋梗塞と弁置換の手術を同時に行うことはありえない。
まず、心筋梗塞治療を行った後、別の日に弁置換手術を行ったということなら、弁置換のことだけを書けばいいのであって、事故との関連性のない<心筋梗塞で入院していた患者>と誤解を招くような書き方は感心しない。
事実、同病院のホームページでは<機械弁(人工弁)による大動脈弁置換術を施行しました。術後5日目、左内頸静脈より中心静脈カテーテルを挿入しようとしたところ、誤って頸動脈に挿入してしまい、その先端が機械弁の中を通過したことにより人工弁機能不全を起こしました>と心筋梗塞にはまったく触れていない。心筋梗塞が“事故”とはまったく因果関係がないからである。
次の疑問点は(おそらく病院の発表どおり)<担当医は30代ベテラン>としている点だ。
同病院のホームページによると、心臓血管外科医は教授以下4人。主な手術および検査件数(平成20年度実績)は、
・開心術 (冠動脈バイパス術、弁置換術、胸部大動脈瘤手術、先天性心疾患など)126例
・腹部大動脈瘤手術 35例
・末梢血管手術 68例
小児から高齢者までの心臓・血管疾患に対して、年間約220例の手術を行っている、としている。
症例実績を外科医の数で割ると、1人あたりの年間執刀例は50数件に過ぎない。同じような要員体制で心臓治療を専門とする病院では、500例~600例をこなしているところもある。外科医1人当たりの実績は100件を超えるのである。よく「年間100例以上の執刀を手がけなければプロとしてのスキルは維持できない」と言われるが、そんな世界で、同病院の30代の執刀医を「ベテラン」と呼べるだろうか。疑問である。
心臓大手術後の患者に対する栄養補給は、同病院の発表どおり、<左内頸静脈より中心静脈カテーテルを挿入して>行われるが、ここで静脈と動脈を間違えてカテーテルを挿入するなどというのは信じられないようなきわめて初歩的なミスである。静脈にカテーテルを入れるとカテーテルは血液の流れに乗って帆を張った船のように、するすると心臓(右心房)に達する。
対して頚動脈は心臓から発して脳など首から上の臓器に血液を送る大動脈である。だからカテーテルをここに挿入するということは、大川の流れに逆らって舟をこぐようなものである。行き着く先は左心室。で、置換をしたばかりの大動脈弁を壊してしまった。静脈と動脈では手ごたえが違うことは、経験豊かな者ならすぐ分かることだ。
“事件”の行方は患者の死因、執刀医の過失の程度、若葉マークに執刀を任せた上司の管理責任にもかかわってくる。医療訴訟が激増している。司直の手が入る。事件記者にもこの程度の医学知識が求められる時代になった。
もうひとつ、大原麗子さんの死因に関する記事である。各紙、テレビは<不整脈による脳出血が原因>と報じている。これもなにかの間違いだろう。
よくあるのは不整脈による脳梗塞だ。不整脈のなかでも心臓の心房(主に左心房)がぶるぶる震え、そこで出来た血栓(血の塊)が脳に飛んで脳の血管を詰まらせる(=塞ぐ)病気である。専門的には「心原性脳梗塞」という。あの長嶋茂雄さんがそうだった。不整脈で脳の血管が破れて死に至るという病態は聞いたことがない。
推察するに、大原さんは脳出血、くも膜下出血、または脳動脈瘤の破裂で急死した。不整脈もあった、ということではないのか。だがこう指摘した記事を見ていない。不思議なことである。
死因に関する記事で、最近最大のものはマイケル・ジャクソンさんの死因をめぐる報道である。専属医コンラッド・マーレー医師が強力な麻酔薬「プロポフォール」を点滴で注入したとされている。他殺の疑いである。
ただ、殺人のなかでも計画的で殺意のあるmurderなのか、殺意のない非計画的なmanslaughterなのかははっきりしない。しかしはっきりしていることは、異状死の解剖率が10%しかない日本と違って、アメリカでは、死因解明には異常に熱意を持っているということだ。
ロス市警の担当記者は、ジャクソンさんが使っていたといわれる、聞きなれない鎮静剤「ロラゼパム」と「ミダゾラム」についても猛勉強していることだろう。
長年続いた政権の死がカウントダウンに入った。評論家の皆さんに、死因解明、丹念で国民に納得のいく腑分けをお願いしたい。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
コメント