3888 世論が風によって左右される 加瀬英明

私は2年前に本誌で、風について論じた。ちょうど、自民党が参議院選挙で惨敗した時だった。マスコミは「風が吹いた」と、囃したてた。
4年前に小泉首相が率いる自民党が衆院選で圧勝したときも、「風が吹いた」のだった。23年前に、土井たか子党首が率いる社会党に「マドンナ旋風」が吹いたことがあった。
日本語で風といえば、そよ風のほかには、教風とか矯風といった例外はあっても、狂風とか、風の吹き回しとか、風任せというように、思わしくないことばかりだ。風に当たるといえば、魔風が災いをもたらすことだった。
風は疫病神だった。「風の神払い」といって、仮面をかぶって太鼓を打ち鳴らしながら、金品を貰い歩く乞食がいた。
農村では人々が風の神に見立てた人形を作って、鉦(かね)や太鼓ではやしたてて、厄除けを行った。今でも地方へ行くと、豊作になるように祈願する風(ふう)神(じん)祭(さい)が行われている。
7月には岡山県美作と、群馬県館林を竜巻と突風が襲って、大きな被害を生じた。風は大規模な破壊をともなう。
お蔭参り
日本の国民性は規律をよく守って、勤勉に働くが、そのかたわらときに浮かれて、憑(つ)かれたように騒ぎ立てる性向を、兼ね備えている。
これまで日本民族は、長い間、一過性の流行に取り憑かれてきた。江戸時代も、今もあまり変わっていない。江戸時代には先の都議選と同じような、お蔭参りや、流行(はやり)神(がみ)現象が存在した。
お蔭参りは、江戸時代に50~60年の周期で起こった。伊勢神宮の御札がどこからともなく降って、伊勢神宮にお参りすると、大きな御利益が得られるという噂(うわさ)が全国に広まり、人々が家を飛び出し、おかしな衣装をつけて、卑猥(ひわい)な歌を歌い踊りながら、奔流(ほんりゅう)のように伊勢へ向かった。
最後のお蔭参りは、明治元年の前年にあたる1867年(慶応3年)に起こったが、数百万人の群集が「ええじゃないか、ええじゃないか」と憑かれたように唱えながら、伊勢神宮へ向かって練り歩いた。
ほかに江戸時代に起こった大規模なお蔭参りは、1650年(慶安3年)、1705年(宝永2年)、71年(明和8年)、1830年(天保元年)で、毎回2百万~3百万人が参加した。なぜ、大規模なお蔭参りが発生したのか、分かっていない。
なかで最も規模が大きかったのは1705年で、この年の4月から5月にかけて50日間に360万人以上を数えたという。この時の日本の人口は、3千万人弱だった。
当時の記録によれば、子は親に妻は夫に奉公人は主人に断りなく飛び出し、道中、集団をつくって、万灯(まんどう)やのぼりを押し立て、練り歩いた。なかには女が男の姿をして、男が女の姿をする者も多かった。
 
手がつけられなかった。道中、村役人から、富家、一般の家まで酒を振舞ったり、炊(た)き出しを行うことを強要された。土足のまま座敷に上がって踊った。踊らないと神罰が下るといわれ、阻もうとする者に神罰が下った。
 
お蔭参りは先の大規模なものを含めて、15回起こったと記録されている。民衆が日常の生活の規範から抜け出して、踊り狂い、参詣(さんけい)したので、抜け参りとも呼ばれた。
なぜ、このような集団ヒステリー現象が周期的に起こったのか。「民衆が封建的支配のくびきから一時的に『解放』され、不満を発散するという役割をもっていた」(『日本歴史大辞典』河出書房新刊)という解説が多い。封建的支配のくびきというのは、左翼史観だから頷けないが、なぜかお蔭参りは日本に独特な現象である。
明治前年の最後のお蔭参りのときは、「コノヨナホシニ」という囃(はや)し言葉を唱えたが、世直し幻想と結びついている。
流行(はやり)神(がみ)は江戸時代に特定の神社、祠(ほこら)、仏閣にお参りすると大きな御利益を得られるという噂が広まり、短期間中、その社や祠、仏閣に人々が集中して参詣する。一定の期間が過ぎると、潮が引くように流行が終わって、誰もそこへ行かなくなる。新しい流行神が、周期的に登場した。
かつてのエイズブームや、リクルート騒動も、現代のお蔭参りであり、流行神現象だった。戦前の軍国主義熱も、戦後の安保騒動、日中国交正常化の中国ブーム、ロッキード騒動も、お蔭参りと流行神を原型としていた。
一身独立して一国独立す
日本人は日ごろ自分を抑えて、職場でも家庭においても、人間関係や家族関係のなかでがんじからめに絡(から)めとられて、周囲を窺(うかが)いながら暮らしている。今日でも一つのことに集中的に熱中することによって、感情的な排け口をつくる。
だが、武士階級はお蔭参りに参加しなかった。日本は戦後、士農工商のうち、士が否定されたために、庶民ばかりしかいない無責任な国となった。
このような現象は、庶民が政治にまったく責任を負うことがなかったので、しっかりした自分を確立することがなかったために起こった。福沢諭吉が「国民は一人一人が我身分重きものと思わねばならない」と訴え、「人民に独立の気力なきときは、一国独立の権義を伸ること能はず」「一身独立して一国独立す」と説いている。
日本は成人(おとな)がいない、子供ばかりの国となった。
今回の総選挙に当たって、自民党は選挙公約を「マニフェスト」、民主党は「インデックス」と呼んでいる。なぜ、生半可な外国語を使うのだろうか。日本の善男善女の圧倒的多数は英語を理解することができないから、外国語は舌足らずでしかない。なぜ、日本語を用いないのか。
そういえば、私は高価な洋食店に招かれるたびに、実験を行っている。どの店も、メニュウにカタカナの料理ばかり載せている。判じ物だ。そこで、ウェイターやウェイトレスに何を意味するか質すと、きまったように「お待ち下さい。厨房できいて参ります」という答が戻ってくる。大多数の客はどんな料理かよく分からないのに、注文する。
せっかく高い料金を払うことになるのに、明治の書生たちが寮で何でも持ち寄ったものを、鍋に放り込んで炊いた闇(やみ)鍋(なべ)と変わらないではないか。
イタリア料理店を訪れて、メニュウに「パスタ・アラ・カルボナーラ・チボ・アバンザート」とのっていたとしよう。美味しそうだ。夢心地に注文する。
カルボナーラは塩漬けの豚肉(ベーコン)と卵の黄身を混ぜて、イタリア麺であるパスタにまぶしたものだ。ciboは食品、avanzatoは「食べ残す」を意味するavanzareの過去形だ。前の客が食べ残した残飯の「使い回し」を、意味する。
マニフェストは政権公約とどうなるのか
マニフェストにせよ、料理名にせよ、カタカナ語を意味がよく分かっていないのに乱発するから、幼児語と変わらない。日本が幼稚になっている。
マンション名にも、怪しげなカタカナが多い。きっとフランス語や、ギリシア語やラテン語で、「精神病院」とか、「焼き場」という言葉に絢爛な響きがあったら、大手の不動産会社が知らずに競って、そう名付けるにちがいない。カタカナは安物の使い捨て商品によく使われている。
兇々しい風は、いつもマスコミがひき起す。騒動や、流行はテレビ局にとっても、新聞社にとっても、売りだ。
かつて大新聞は満州事変以後、戦争熱を競って煽った。戦争は部数拡張の絶好の機会だった。今日では軍人が暴走したために、日本を無謀な戦争に導いたと信じられているが、軍人も多分にマスコミによって煽動されたのだった。
「小泉旋風」も暴風だった。政治家と国民が品位を失った。「自民党をぶっ壊す」と叫んだが、「私を育てた家に火を付ける」と騒いだのに、国民が喝采した。それで人気を博したから、澆風(きょうふう)――軽薄な風俗だった。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト 

コメント

タイトルとURLをコピーしました