3907 中国誌が明かす北朝鮮「金王朝」の系譜 古沢襄

韓国の朝鮮日報が中国誌「世界知識」が北朝鮮の金日成主席の家系について異例の報道をしていると伝えている。「世界知識」は中国外務省の直属の出版社。いわば中国政府の非公式な見解とみていい。
金日成主席の死去については、ドン・オーバドファーの「二つのコリア」が詳しい。金日成死去の詳細は北朝鮮では一度も報道されていないが、葬儀の際に北朝鮮高官との特別の接触を許されたジュリー・ムン(文明子)の報告に基づくとドン・オーバドファーは情報源を明らかにしている。西側の情報である。
文明子報告の正確さはドン・オーバドファーが1995年1月に訪朝した時に、北朝鮮高官が認めたという。しかし「世界知識」は「1994年7月8日、妙香山の別荘でかつての戦友チョ・ミョンソン大将死去の報に接し、そのショックから心臓発作を起こし死亡した」と新事実を伝えている。
また金正日総書記の三人の息子について触れている。
ロシアやヨーロッパ各国に留学した長男の正男氏はコンピューター・マニアで、国家保衛部で関連部署の責任者および北朝鮮のコンピューター委員会委員長を務めたという。
90年代の時点では後継者として有力視されていたが、01年5月に偽造旅券を使って日本に入国しようとして摘発され、ここから後継者としての地位を失い始めたとのことだ。同誌は「摘発当時、金正男のドミニカ旅券に記されていた仮名は、中国語で“太ったクマ”を意味する“パン熊(パンは月に半)”だった」と報じた。
中国が金正男氏の後ろ盾説があったが、ここでは後継者としての地位を失ったことを認めた。
一方、「パク・チョル」という仮名でスイスに留学していた次男の正哲氏は、労働党指導部第1副部長を務めたという。内向的な性格だが、バスケットボールや団体活動には積極的に参加していたと伝えられている。しかし正哲氏には病弱なところがあり、金総書記の大きな期待は得られなかったとした。
そして最後に金総書記の後継者に内定したと報じられている三男の正雲氏については、「勝負欲が強く、容姿や性格が金正日とそっくりで、金正日に気に入られている」とする一方、「外部に知られている情報は多くなく、神秘のベールに包まれている」と報じた。
同誌は北朝鮮について「世の中で最も神秘的かつ理解しがたい国家」と評した。中国がこの様なあからさまな見解を示したのは興味がある。三男・正雲氏の後継説を認めながらも、”理解しがたい国家”と評した点が面白い。
<金日成 | 金正日 8月26日までに確認されたところによると、中国外務省直属の世界知識出版社が隔週で発行している雑誌『世界知識』は7月初め、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席と金正日(キム・ジョンイル)総書記の夫人や子供など、ベールに包まれた一族の家系を詳細に紹介する記事を掲載した。中国の官営メディアにほかならない同誌が、北朝鮮の「金王朝」について紹介するのは、非常に異例のことだと評価されている。『世界知識』総編集人の沈国放氏は1990年代に外務省報道官を務め、2006年末に部長助理(次官補級)を最後に現職を退いた。
同誌は金日成主席の死去について、「94年7月8日、妙香山の別荘でかつての戦友チョ・ミョンソン大将死去の報に接し、そのショックから心臓発作を起こし死亡した」と報じた。チョ大将は、金主席のパルチザン部隊に所属していた部下で、カン・ゴン総合軍官学校の校長を務めていたが、金主席と同じ日に死亡した。同誌は、金主席が「50年代から核兵器の研究開発に着手した」とも報じた。
同誌によると、金主席には3人の夫人がいたという。パルチザンの仲間で「国母」と呼ばれる金正淑(キム・ジョンスク)氏との間に息子の正日=42年生まれ=、万一(マンイル)=44年生まれ、47年に池で水死=氏、娘の敬姫(ギョンヒ)=46年生まれ、労働党軽工業部長=氏をもうけた。だが金主席には、金正淑氏と結婚(40年)する以前、韓聖姫(ハン・ソンヒ)氏という最初の夫人がいたという。同誌は「韓聖姫は14年に江原道で生まれ、幼少時代に中国北東部へ移住し、金日成が組織した共産主義読書グループに参加、37年に結婚した」と記した。しかし、「韓聖姫の身の上については明らかになっていない」という。
金主席は53年に金聖愛(キム・ソンエ)氏と再婚し、娘の慶真(ギョンジン)、息子の平一(ピョンイル)、英一(ヨンイル)氏をもうけた。慶真氏は駐オーストリア大使キム・グァンソプ氏の夫人だ。平一氏は正日氏(現総書記)との権力闘争に敗れた後、ハンガリー・ブルガリア・フィンランド大使などを経て、現在はポーランド大使を務めている。英一氏はドイツやマルタなどを転々とし、00年に肝硬変を患い死亡した。
また同誌は、金正日総書記について「幼いころから金日成に愛される方法をよく知っていた神童で、観察力と分析力に優れている」と評価した。74年2月に労働新聞が「党中央の意見は領導の意見にして、金正日は金日成と同等の権威を持っている」と報じて以降、後継者としての地位を固めたという。
同誌は、金総書記の結婚や女性関係についても紹介した。「最初の夫人については、最高人民会議の代議員を務めた洪一茜(ホン・イルチョン)だという推測と、金日成執務室でタイピストを務めた金英淑(キム・ヨンスク)だという説が交錯している」と記されている。韓国政府の当局者は、「金正日は金英淑と結婚し、雪松(ソルソン)=74年生まれ=という娘をもうけた」と語った。
同誌は、「金正日は最初の夫人とわずか3年で離婚。60年代に有名女優だった成恵琳(ソン・ヘリム)=37年生まれ=が2番目の夫人」と報じた。成恵琳氏は長男・正男(ジョンナム)氏を産んだが、金総書記より年上(5歳上)なのに加え、離婚歴があるという理由から金主席に認めてもらえず、隠居生活を送っていたという。成恵琳氏は02年5月、モスクワで死亡した。
これに対し、平壌の万寿台芸術団で舞踊家として活躍していた高英姫(コ・ヨンヒ)=53年生まれ=氏は金主席に認められ、北朝鮮の「ファーストレディー」となり、次男・正哲(ジョンチョル)=81年生まれ=、後継者として取りざたされている三男・正雲(ジョンウン)=83年生まれ=氏をもうけた。なお、94年に高英姫氏が亡くなった後は、秘書の金玉(キム・オク)=64年生まれ=氏が夫人の役割を果たしているとのことだ。
同誌は金総書記の3人の息子についても比較した。ロシアやヨーロッパ各国に留学した正男氏はコンピューター・マニアで、国家保衛部で関連部署の責任者および北朝鮮のコンピューター委員会委員長を務めたという。90年代の時点では後継者として有力視されていたが、01年5月に偽造旅券を使って日本に入国しようとして摘発され、ここから後継者としての地位を失い始めたとのことだ。同誌は「摘発当時、金正男のドミニカ旅券に記されていた仮名は、中国語で“太ったクマ”を意味する“パン熊(パンは月に半)”だった」と報じた。
一方、「パク・チョル」という仮名でスイスに留学していた正哲氏は、労働党指導部第1副部長を務めたという。内向的な性格だが、バスケットボールや団体活動には積極的に参加していたと伝えられている。しかし正哲氏には病弱なところがあり、金総書記の大きな期待は得られなかったという。
また、金総書記の後継者に内定したと報じられている正雲氏については、「勝負欲が強く、容姿や性格が金正日とそっくりで、金正日に気に入られている」とする一方、「外部に知られている情報は多くなく、神秘のベールに包まれている」と報じた。同誌は北朝鮮について、「世の中で最も神秘的かつ理解しがたい国家」と評した。(朝鮮日報)>
杜父魚ブログの全記事・索引リスト

コメント

タイトルとURLをコピーしました