ひとつの家系から総理大臣を二人も出す例は珍しい。吉田茂・麻生太郎、岸信介・安倍晋三、鳩山一郎・由起夫ぐらいでないか。奇しくも孫が総理大臣になっている。兄弟総理では岸信介・佐藤栄作。
しかし鳩山家はケネデイ・ファミリーに比較されるくらい華やかな彩りがある。四代にわたる政治家の家系だが、いずれの当主も最初から政界を志したわけでない。どちらかというと学者肌の家系といえる。
ところが奥方や母君はとてつもなく政治好き、女性が男性に勝る珍しい家系である。
祖父の鳩山一郎氏の父親は和夫氏といった。勝山藩の江戸留守居役・鳩山重右衛門博房の四男として安政三年に生まれ、明治維新後は法律学者として名を残している。明治二〇年に東京帝国大学教授になるが、二十三年の第一回衆議院議員選挙に出馬して落選、その年に早稲田大学の前身である東京専門学校の校長になった。
明治二十五年の衆議院補欠選挙で、再び落選。その年の第二回臨時総選挙でようやく初当選し、以後は九回連続当選、衆議院議長にもなっている。
断っておかねばならぬのは、鳩山姓は古来からある近衛姓の様な名門の姓氏ではない。姓氏家系大辞典を紐解くと「下総国香取郡に鳩山邑あり。明治の名士に鳩山和夫あり」とある。いうなら明治以降の新興名士の扱いを受けている。
戦前・戦後を通じて健筆をふるった松本幸輝久さんという政治ジャーナリストがいた。この人の鳩山一族論は、実にユニークで核心を突いていた。松本さんは、曾祖父の鳩山和夫氏をみていると鳩山一族のことがよく分かると言っていた。女性が優位に立つ鳩山家というのも松本さんの見立てであった。
鳩山和夫氏の妻は春子さん。明治四年に東京女学校に入学して、英語を学んだチャキチャキの才女で、明治十九年には共立女子職業学校(現在の共立女子大学)を創立した女傑。政治力も抜群で、明治の女流教育家のナンバーワンといわれている。
学者肌の和夫氏はもともと長男の一郎氏を政治家にすることには執心していなかったという。それが政治家になったのは、むしろ母・春子さんの影響に負うところが大きかった。一郎氏が春子さんのお腹の中にいた時に「この子をえらい政治家に育てよう」と春子さんが胎教をほどこしたエピソードが伝わっている。
その鳩山一郎氏の妻は薫さん。内閣書記官長・貴族院議員だった寺田栄氏の娘だが、義母の春子さんの跡を継いで共立女子学園の校長になっている。薫さんは明治36年に東京麹町の女子学院英語科に入学している。明治41年に鳩山一郎氏と結婚。昭和57年に93歳で没した。
薫さんは義母の春子さんの縁戚に当たる。その薫さんに惚れ込んだ一郎氏は、寺田かおる様宛の恋文を連発していた。「妹よ・・・」の恋文は、いずれも鉛筆書きで小さな字だったという。
鳩山威一郎氏もドロドロとした政治の世界には、一歩身をひいていたところがあった。自分の息子の由紀夫、邦夫兄弟が、政治家になることにも積極的でなかったという。東大法学部を首席で卒業し、卒業者代表として答辞を読んだ。
大蔵省に入省したが、言葉数が少ない人物だった。だが、省内では不思議と人気があって「ポッポさん」とか「ポッポ」のニックネームがついて慕われている。その毛並み、人柄に惚れ込んだのが田中角栄氏。「野武士集団の田中派に公家筆頭の威一郎を迎え、跡目を譲りたい」と角栄氏は、威一郎氏を口説いたという。
参院全国区で一五〇万票をとって政界入りした威一郎氏だったが、平成五年十二月十六日に角栄氏は亡くなり、その三日後に威一郎氏もこの世を去った。
威一郎氏の妻は安子さん。大正11年にブリヂストンタイヤ(現 ブリヂストン)の創業者・石橋正二郎氏の長女として生まれた。昭和17年に威一郎氏と安子さんは結婚。石橋家は、戦後ずっと高額所得者の上位常連だったから、平成八年に民主党が結成した時には、由起夫・邦夫兄弟のために安子ゴッドマザーが五十億円を用意したという風評も飛びかった。
祖父に続いて総理大臣になる鳩山由紀夫氏は学者肌の血統である。人の好さ、頑固なところは祖父・一郎氏譲り。鳩山家に共通していた女性上位の血統も受け継いでいる。
だが、日本のファースト・レデイになる鳩山幸さんは、華麗だが謎に包まれている。元タカラジェンヌ娘役・若みゆき、宝塚歌劇団に昭和36年入団、42年退団といった経歴では、芸能界に弱い私はお手上げ。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の助けを借りるしかない。
それだけに欧米メデイアでは、鳩山新首相よりも”みゆき”ファースト・レデイに関心が集まっている。
<鳩山 幸(はとやま みゆき、1943年6月28日 – )は、ライフコーディネーター。上海生まれ神戸育ち。神戸海星女子学院出身、宝塚歌劇団卒業生でもある。夫は政治家(民主党代表)の鳩山由紀夫。息子は元東京大学大学院工学系研究科助教・工学者の鳩山紀一郎。
1959年、宝塚音楽学校入学。宝塚歌劇団第47期生。1961年、宝塚歌劇団入団。同期に初風諄、羽山紀代美らがいる。若みゆきの芸名で娘役として舞台に立った。宝塚時代の愛称はコンちゃん。
宝塚歌劇団在団中の1965年(昭和40年)、フランスのパリ公演メンバーに選抜され、9月18日から20日までパリ市内のアルハンブラ劇場(Alhambra (Paris))で公開試演会。そして、9月21日から10月17日まで同劇場で33回の一般公演を行った。若みゆきを含む、タカラジェンヌ達が全員着物姿でパリ市内見物をしているカラー写真が現存する。1967年に宝塚歌劇団を退団。
退団後は結婚し渡米。日本料理店で働いていたとき鳩山由紀夫と出会い、夫と離婚し由紀夫と1975年に再婚。政治家の妻として精力的に政治活動を行う一方、料理関係の書籍を出版した。2007年、宝塚退団後40年ぶりに舞台に立った。>
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3913 華麗な家系・鳩山一族 古沢襄

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