3947 昭和10年前後の文学状況  古沢襄

昭和作家・平林彪吾の息子でテレビ朝日の報道局長だった松元真さんが「父 平林彪吾とその仲間たち」(図書新聞)を出した。423ページの大作。
昨年7月に「平林彪吾の伝記小説」の記事を私が杜父魚ブログに書いた。その書き出しは
<テレビ朝日の報道局長だった松元真さんは幼なじみの友人。気がついたらお互いにジャナーナリストになっていたという仲である。ニックネームは”マツゲン”、私は”マコちゃん”と呼ぶ。父親は昭和文学史に名が残る平林彪吾、父上は大柄の九州男児であった。鹿児島県人。本名は松元實。
マコちゃんと私ことジョウちゃん、それに紅一点のトモ子こと堀江朋子さん(昭和作家・上野壮夫の次女)が連れだって、浅草によく飲みに出撃した。その仲間に武田麟太郎の長男・文章君や頴介君も加わって、浅草のどじょう鍋を突っついたこともある。文章君は詩人、頴介君は毎日新聞にいたが、私たちより若くして、この世を去った。
マコちゃんと私は喜寿、トモ子はそろそろ古希に近づいた筈だが、当時はお互いに四〇歳台。三人とも会社勤めのかたわら、エッセイらしきものを書き飛ばしていた。>
「文芸復興」という同人雑誌がある。そこに松元真さんは「父 平林彪吾とその仲間たち」の表題で、昭和10年前後の文学状況を書き続けていた。
「父 平林彪吾の三十八歳の短い生涯を書くのに、ほぼ5年もかかった」・・・脱稿した時のマコちゃんの述懐。「父の生活と文業だけを辿るのは容易いが、それでは極めて”私家本”的な感懐に終始してしまう。折角、平林彪吾を追うのであれば、周辺の作家仲間たちを巻き込んで書きたい」。だから副題を「私抄 文学・昭和十年前後」とつけた。
昔話に戻る。
<ある日のことマコちゃんは「生のジャズを聞きにいこう」と言い出した。「ジャズかあー」と私は乗り気でない。喧しいアメ公の音楽といった程度の知識しかないからである。「あら、クラッシク・ジャズを知らないの」とトモ子は乗り気。
二対一で浅草のジャズ喫茶らしきところに連れていかれた。ビールを飲んでいる客もいるから喫茶店ではないのかもしれぬ。食わず嫌いだった私も今では書斎でクラッシク・ジャズを聞きながら、ものを書くことが多くなった。>
杜父魚ブログはまだ四年程度の歴史しか刻んでいないが、その前に「杜父魚文庫」というインターネット・エッセイ文庫を始めた。十数年昔のことになる。そこに松元真氏さんが父・平林彪吾の想い出を書いていた。
<鶏飼ひのコムミュニストが当選
相馬ビルは、当時でも珍しい鉄筋コンクリートの五階建てであった。その四階の角部屋が私たちの住居である。窓から、建設中の勝鬨橋と聖路加病院が見えた。「パパ、少し出世したんだぞ」父は、おどけてみせた。昭和十二年三月引っ越し。事実、自転車屋の二階、美容院の離れなど、銀座界隈を転々としていた私にしてみれば、突然、浮き立つような眺望が手に入ったことになる。六畳一間に押し入れと台所、便所は共同であった。
昭和十年、「文芸」の懸賞に「鶏飼ひのコムミュニスト」が当選。父は、「人民文庫」執筆グループの一人として主に同誌を中心に作品を発表していたが、以後「文芸」に「フロック」や「輸血協会」などを発表、わずかながら世に認められるようになっていた。
アパートの一室では、文学青年がよくたむろして、将棋をさしたり、議論をしたりしていた。父はその喧騒の中で、机に向かっている日も珍しくなかった。居場所のない私は、大きな父の胡座の中にすっぽり抱かれていることが多く、私の耳元で、父の走らせるペンの音が軋んでいた。
生活を支えるため、母は夕方になると、身支度を整えて、銀座のカフェへ出勤した。母が出掛けたあと、夕刻を狙って父の仲間が押し掛けてくることが、まま、あった。自然、銀座に繰り出すことになるが、時には浅草まで遠出をする夜もあった。
父は、母の鏡台から、生活費の一部を、拝む真似をしては持ち出した。ただでさえ大柄な体躯を小さく丸めて、私に目配せをする。たいがい私は、置いてけぼりにされたが、時にはお供をさせてもらった日もある。私の謀叛をおそれたからであろう。
私の記憶では、浅草の場合、「神谷バー」か「染太郎」、銀座では七丁目に今もある、天井の高いビヤホール。戦災の焦げ跡はそのままだが、タイルの壁画も復元され、相変わらず賑わっている。父は私にフルーツポンチを与え、食べ終わると、表の露店に花火を買いにやらせる。
私は何度も、ドーム風の高い天井めがけて、打ち上げ花火をやらかし、大人たちの拍手を浴びた。父はその度に支配人に頭を下げた。鏡台からの抜きとりは、とうに時効であろう。いや、母にしても、先刻気づいていたに違いない。>
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