鳩山内閣(2009年9月16日発足予定)は民主党、社会民主党、国民新党による連立政権だが、参議院対策のための連立政権である
自民党を初めて斃したと喜んだ民主党支持者は勿論、負けた自民党支持者も共に戸惑っているのは、大勝したはずの民主党が、社民党と連立を組もうとして、社民党に振り回される現実を見せられたことである。
日本では、戦前や戦後の混乱期、1955年の保守合同で自由民主党が成立するまでは連立政権が多く見られた。以後、長期にわたって自民党の単独政権が続いた。
しかし、中曽根康弘首相による第37回総選挙(1983年12月18日)の時に過半数を割った。しかし保守系無所属を追加公認して過半数を辛うじて確保。安定多数を確保するため、衆議院議員8人の新自由クラブと連立政権
を組んだ。
それでも、参議院では、自民党は圧倒的多数を制していた。不思議な現象だった。いわゆる「55年体制」といわれる保守合同と左右社会党の統一の実現した昭和30年以降、参議院は自民党の天下だった。
だから重宗雄三による議長4選争いなどという「内ゲバ」が起きても、自民党は揺るがなかった。だからこれをバックに「角福戦争」(田中角栄と福田赳夫によるポスト佐藤栄作を巡る総裁争い)や大平正芳、福田による「政権密約」謀議も「遊べた」のである。
中曽根内閣の後、竹下内閣、宇野、海部内閣とよたよた自民党政権がつづいたが、生前の田中角栄が「あいつにだけは総理大臣をヤラしちゃいかん」と遺言した宮澤喜一が内閣を組織したところで精が尽きた。
非自民・非共産連立政権・細川護煕(もりひろ)内閣の登場。自民党離党以来、汚濁の底で蠢いていた小澤一郎がこれをハンドリングして表面に出た。
細川内閣は日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の連立。
続く羽田孜(つとむ)内閣は新生党、公明党、日本新党、自由党、民社党、民主改革連合、改革の会の連立。
突如として自社さ連立政権。あろうことか自民党が日本社会党と連立して政権を奪還。そのかわり社会党は破壊した。
村山内閣は、日本社会党、自由民主党、新党さきがけ、(政務次官のみ、自由連合)の連立。
第1次橋本内閣 – 自由民主党、社会民主党、新党さきがけの連立。
1989年の第15回参議院議員通常選挙(橋本内閣)で、自由民主党が非改選議席を合わせても過半数に届かず大敗を喫した以後は、連立を組まざるを得ない状況が慢性化している。
自自政権
小渕内閣―自由民主党、自由党
自自公政権
小渕内閣―自由民主党、自由党、公明党、(政務次官のみ、改革クラブ)。ここから小澤の自由党が脱退したことがショックとなったか小渕が急死した。
自公保政権
森内閣―自由民主党、公明党、保守党、(政務次官のみ、改革クラブ。第42回総選挙まで)
第1次小泉内閣―自由民主党、公明党、保守新党
自公連立政権
小泉内閣(第2次以降)―自由民主党、公明党
安倍内閣―自由民主党、公明党
福田康夫内閣・福田康夫改造内閣―自由民主党、公明党
麻生内閣―自由民主党、公明党
2007年11月には民主党と自民党により、政策協議が開かれたが物別れに終わった。(大連立構想)の挫折。
かくて2009年8月30日、衆院選で野党民主党が308議席と大躍進、自民は3分の1のわずか119議席。しかし政権を初めて奪回しても参議院では過半数に達していない。
先の自公のように参議院では過半数に達していなくても衆議院で3分の2を制していれば再議決で問題はなかったが、さすがにそれは無理。どんなに厭でも社民党と国民新党に頭を下げるしかないのだ。
だから民主党が来年の選挙で、参院の過半数を制すれば、少なくとも社民党との連立を解消しようとするだろう。小澤としては「それまで待っていられない」と自民や公明に「手」を突っ込むか。(文中敬称略)
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
3973 連立は参院割れのため 渡部亮次郎

コメント