日本の苗字の研究で第一人者である丹羽基二氏は”沢”の字がつく姓について、東日本に多いが、西日本には少ないという説を唱えている。地名でも”沢地名”は国土地理院の20万分の1の地図で、岩手県に22カ所、長野県に24カ所があり、すでに廃れつつある小字(あざ)程度の小地名を入れたら、この十倍以上の”沢地名”があると推察している。
ところが「何故か西日本には”沢地名”が少ない。否、少ないどころか、ほんとんど見られない」としている。私は共同通信社の福岡支社長時代に博多に三年住んで、九州の古沢姓や古沢の地名を調べたことがある。丹羽さんの説のように九州には古沢の地名は無かった。あれば、ぜひご教示を頂きたい。
また丹羽氏は”谷”の字がつく”谷地名”は、西日本に多いという説を唱えた。だが西日本にタニ地名が多く、東日本にサワ地名が多い理由は分からないとしている。ただ谷姓は古くは坂上氏の一族で谷直という人物が出ており、「天武前記」に谷直潮手、谷直根麻呂などの名がみえることから渡来族の末裔と推論している。
平安時代に蝦夷討伐で軍功をあげた征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)の帰化人説がある。都人から優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生んだ。
一方、沢姓は諏訪神家の一族で信濃国伊那郡沢邑から起こった武家の沢族があると指摘している。東日本にサワ族が多いことから、渡来族のタニ族に対してサワ族は在来種という推論を下している。非常に興味ある説だと思う。長い歴史の中でタニ族とサワ族は混じり合っているから、詮索すること自体があまり意味がないことなのかもしれない。
沢姓の中でも古沢姓は極めて少ない。”沢地名”の多い東日本でも古沢地名は、関東で茨城県(下妻市古沢)と神奈川県(厚木市古沢)の二カ所、下野国に古沢地名があったというが、まだ探し当てていない。山梨県にも古沢の地名があった。
鎌倉時代になるが、源頼朝に従った鎌倉御家人に古沢(古庄ともいう)近藤太能成という武士がいた。吾妻鏡にも出てくる。その長子・能直が頼朝の陸奥征討軍に従って軍功(頼朝の近習だったという説がある)をあげて、豊後守兼鎮守府将軍に任ぜられて九州に下向している。
さらに遡るが、平将門を誅殺した田原藤太秀郷は、武家藤原氏として子孫の数が多く、関東、東北で勢威を振るっている。<藤>がつく苗字は三百とまでいわれた。秀郷流の一分脈に近藤侑行の名がみえる。尊卑分脈によれば近藤は近江国に住む武家藤原姓の意味だという。
吾妻鏡の寿永元年五月の条に「相模国金剛寺の僧侶が訴状を持って、古庄近藤太の非法を鎌倉に訴えでた」という記録がある。ここでいう古庄近藤太は近藤侑行ではない。佐藤系図には「侑行(近藤太)・景親(島田権守)・能成(古沢近藤太)・能直(大友)」とある。
尊卑分脈では能成(古沢近藤太)は住相模国。また鎌倉武者所の左近将監の役職についていた。妻は相模国足柄郡大友邑からおこった大友経家の娘。能成は鎌倉武士として飛ぶ鳥を落とす勢いにあった。大友経家と姻戚関係を結ぶことによって発言力を強めた。
古沢姓と古庄姓は同族である。「ふるしょう」という。この古庄姓は武蔵七党の小野姓横山党の一族に出てくる。また相模国愛甲郡の古庄から起こった立花系図には「能直、始め古庄の姓たり。後に大友の姓を号す」とある。
さらには鎮西要略に「建久中、大友能直・豊後国に下着し、古庄重吉を宰臣と為す。能直・父は藤原親能、母は大江広元の女也。能直・実は近藤左近将監の児也」とある。古庄重吉については豊後遺事に「救民氏は古庄重吉を祖とす。藤原秀郷五世孫にして、大友能直の伝たり。直入郡朽網郷市村山野城に拠る」と記載されている。
このことから関東から下向した鎮守府将軍・大友(旧姓古沢)能直は、下向に当たり一族の古沢姓や古庄姓の家臣団をひき連れて行ったことが分かる。この家臣団が広く九州北部に散らばっていったことは、太宰府大島居文書、管内志、町野系図(筑後)、屋山系図(筑後)、合志系図(肥後)の存在によって証明されている。
豊後国の大友氏はキリシタン大名として有名な大友宗麟を生んだが、必ずしも戦(いくさ)に強い大名だったとはいえない。九州南部から興った島津一族との合戦では敗れた記録が多い。
最近、九州の方から「宮崎県の日南市飫肥にも古沢姓が多いです」と教えて頂いた。九州南部にも古沢姓があるというのは、この十数年、全国の古沢姓を調べてきた私にとって新しい発見となった。島津氏の勢力圏にある日南市飫肥に古沢姓が残った謎はまだ解けないでいる。
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4012 東日本は”沢地名”、西日本は”谷地名” 古沢襄

コメント
日南市出身の古澤です。
興味深く読ませてもらいました。
何か分かりましたら、色々と公開願います。
お役に立てるか分かりませんが、
私が持っている情報は以下の通りです。
★日南市の古澤情報
確かに日南市(旧南郷町を含む)には、
古澤姓はそこそこありました。
私の卒業した飫肥中学校には、
同級生に古澤がいたし、当時の校長も古澤でした。
※ともに付き合う範囲での親類ではなかった
★家紋
徳島城主であった蜂須賀氏の家紋が○に卍であり、
うちの家紋と同じでした。
何か関係があるのでしょうかね。
★関東にある古沢地名
川崎市麻生区にも古沢という地名がありますね。
何か関係があるのでしょうかね。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.60040694&lon=139.49989&ac=14137&az=23&v=2&sc=3
★古沢太郎右衛門
1592年以降、古沢太郎右衛門という方が、
古沢村(現厚木市)の長吏(ちょうり)小頭であり、
近世相模において最大の勢力をもった小頭という記述を
本で見かけたことがあります。
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