関東の中世史以降の合戦記録はかなり読んだつもりでいる。資料も少なからず持っている。だが博多に三年間も住んでいたのに九州の合戦記録は読んでいない。今になって迂闊だったと気づいても遅い。九州と沖縄が福岡支社長の守備範囲だった。とくに宮崎県には三ヶ月に一度は行った。
「宮崎県の日南市飫肥にも古沢姓が多いです」と教えて頂いて、いまさらの様に自分の迂闊さを悔やむ始末である。ご教示を頂いて、あれこれ思案を巡らしているが、ひとつの推論を立てている。正しいか、どうかは判らない。
西日本で九州に突出して古沢姓や古庄姓があるのは、鎌倉時代に頼朝の命を受けて豊後守兼鎮守府将軍に任じられた大友(旧姓古沢)能直の配下の鎌倉武士に古沢姓や古庄姓が多いことによる。この古沢姓や古庄姓は関東に戻らずに土着している。平家は滅亡したとはいえ、西国には平家に心を寄せる土豪や落武者が残っている。大友能直は、この押さえとして下向したのであろう。
一説には大友能直は九州に赴かずに、下ったのは実弟といわれる古庄重吉(古庄重能)だったという見解もある。大友家第三代の大友頼康の代になって豊後に下向した立場をとる。その一方で大分県豊後大野市大野町藤北に能直のものと伝えられる墓がある。どちらが正しいかは歴史家の手に委ねるしかない。
問題は「日南市飫肥にも古沢姓が多い」ことの解明にある。下向したのは大友能直か、古庄重吉かは、本論から外れる。鎌倉武士の古沢姓や古庄姓が九州に赴いたことさえ分かれば、推論を進めることが出来る。
九州の合戦史を読まないでいたことを悔やむ話に戻る。
初期の大友氏は鎌倉幕府の期待に応えて、豊後国を固めて周辺に出兵して北九州一円に勢力範囲を広めている。しかし第21代大友義鎮(大友宗麟)の頃になると鎌倉武士の気風が失われたのではないか。大友家の爛熟期になったから、宗麟は戦(いくさ)よりも書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、蹴鞠には特に長じていたという。女色でも有名であった。
宗麟は早くに家督を子の義統に譲った。宗麟・義統の二元政治の下で天正6年(1578)に大軍をもって島津領に攻め込んだ。大友軍は三万とも四万ともいわれる。
しかし日向国(宮崎県)中部の「耳川の戦い」で島津軍に大敗を喫した。有力武将を数多く失い、これが大友家没落の遠因となっている。大友氏の幕下にあった肥前・筑前・筑後の国人領主が、次々と謀反の反旗を翻し、天正14年(1586)には本国である豊後国に島津軍が侵攻してきた。大友方の肥筑諸将のなかで島津氏に降る者が多くなったという。
私は宮崎県南部の日南市飫肥に古沢姓があることと、「耳川の戦い」との関係を仮説として立ててみた。島津軍は大友軍の降将に寛容だったのではないか。むしろ豊後国の地理に明るいことから、島津軍に参陣させて、一気に豊後国に攻め入った・・・という筋書きを考えている。
もちろん、これを裏付ける資料はない。恩賞として古沢氏が日南市飫肥の山城を与えられた記録もないから、あくまで仮説でしかない。だが、九州南部に古沢姓が残っている謎は、これで、まず解いてみることではないか。
「耳川の戦い」出典・ウイキペデイア
天正5年(1577年)、日向の大名伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、友好関係にあった大友氏に身を寄せた。これをうけ翌年、大友宗麟・義統は宿敵・島津氏との決着をつけるため三万とも四万ともいわれる大軍を率いて日向への遠征を決定する。
しかし、大友家内部では宗麟の狂信的なキリスト教への傾倒などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。また、合戦直前の大友軍の軍議で田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。
田北鎮周がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し戦死している。
当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、そこを島津軍が突いたことによって戦況は一転し、大友軍は敗走する。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。
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4013 九州南部に古沢氏がある謎 古沢襄

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