4063 渡来人の末裔・谷氏族 古沢襄

西日本にタニ(谷)地名が多く、東日本にサワ(沢)地名が多いことから、谷姓も西日本に多く、沢姓は東日本に多いという説を、日本の苗字の研究で第一人者である丹羽基二氏が実証的に示している。さらに谷姓は渡来族の末裔、沢姓は在来種の末裔という推論も下した。
谷姓は渡来族の末裔という丹羽基二氏の説は、古文献からも裏付けられる。
まず「文(フミ ブン)」という姓氏から説明したい。「姓氏家系大辞典」には<古代、朝廷にありて文筆を掌りし氏にして、大和(東)、河内(西)の二国に住す。勢威ありしにより、一族諸国にも少なからず。>とある。
丹羽氏は「谷姓は古くは坂上氏の一族で谷直という人物が出ており、「天武前記」に谷直潮手、谷直根麻呂などの名がみえることから渡来族・・・」と言っている。この「谷直」は大和の文氏から出た「文直」のことである。
<文直 倭漢氏の族にして、こは大和の文氏なれば東文氏ともいう。坂上氏の一族也。姓氏録には都賀直の後とす。氏人は多く、倭漢書直と載せ、天武紀に至り連(むらじ)姓を賜う」>
また河内の文氏も大和朝廷で勢威を振るった。天武紀に書首直根麻呂が天武紀十二年に「連(むらじ)姓を賜う」と記載されている。書首直根麻呂は丹羽氏がいう「谷直根麻呂」。この一族は百済の楽浪郡漢人・王仁(わに)の末裔といわれた。
王仁(わに、生没年不詳)は、記紀に記述される百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。実在については証明はなされていない。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。(ウイキペデイア)
『続日本紀』によると、王仁の子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。
漢の皇帝の末裔かどうかは分からぬが、楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、前一七〇年代に斉の内乱を逃れて、百済にやってきた漢人の家系といえよう。いずれにしても大和の文氏、河内の文氏が漢人という渡来人で朝廷で重きを為したのは明らかである。
文氏の姓は朝廷における「文筆を掌りし職掌」からきている。渡来人だから「地名」に由来する姓を名乗る習慣がなかったのかもしれない。しかし大和や河内には谷地名がある。大和や河内の文氏が、谷姓を名乗るには、あまり時間がかからなかった様に思う。谷地名については姓氏家系大辞典に「山城国に谷地名が多し」とある。
事実、天武前紀にも「谷直塩手、谷直根麻呂」などが出てくる。河内の谷氏については「丹比郡小川村の名族にて元禄六年、谷与次兵衛が正定寺を創立す」(姓氏家系大辞典)
和泉の谷氏については「大鳥郡の名族にて元和・寛永の頃、祥雲寺を創建」とある。この祥雲寺は沢庵和尚が開祖となっている。(同)
このほか紀伊の谷氏、伊勢の谷氏、美濃の谷氏、越前の谷氏、丹波の谷氏、備後の谷氏、土佐の谷氏など姓氏家系大辞典に列記されている名族の谷氏が多くある。その一族がすべて渡来人の末裔と断定するわけにはいかないが、大和朝廷において渡来人が大きな勢力となっていたのは、歴史が示している。
応神天皇の時代に本国の乱を避けて、七姓の漢人を百人も率いて日本に帰化した大族があった。これが倭漢氏族の宗家となった坂上(サカノヘ サカノウエ サカガミ)氏。谷氏は坂上氏から出ていると言われる。
中でも8世紀の終わりから9世紀の初めにかけて、奥州の蝦夷征討軍を率いた坂上田村麻呂は朝廷の信頼が篤かった武人。先祖は東漢(やまとのあや)渡来人といわれる。「出漢朝入本朝。応神天皇二十六年也」の記録がある。坂上氏については、別の機会に譲りたい。
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