4086 心からご冥福をお祈りします 西村真悟

本日朝、地元堺市深井にある野々宮神社入り口で、宮入する各村のだんじり(地車)を迎えていた。すると、秘書の辻林君の携帯に中川昭一死去の知らせが入った。その報告を受けた時、えー!という驚愕と共に、「しまったー!」と思った。
そして、何故、あの時彼に手紙を書かなかったのか、という痛恨の思いがこみ上げた。また、七月の先の国会の終わりの頃、本会議場で私の席まで話をしに来てくれた彼のことを思い出した。あの時、何故もっと丁寧に話しの相手をしなかったのだろうか、と悔やんだ。
思えばこれが、中川昭一君との最後の会話になってしまった。
この度の選挙が終わってから、中川君はどうしているかなーと、手紙を書こうと度々思っていて、4、5日ほど前には、まさに手紙を書くところだったのだが、雑用に逐われて書けなかった。
だから、彼の訃報に接し、数日前に手紙を書いておけばよかったと、とっさに悔いたのだった。「しまったー!」という思いは、ここからくる。
また、私が手紙において彼に伝えたかったのは、この日本が日本で無くなるような国家の危機に際して、共に皇室を守り日本再興、大和魂回復のためにがんばろうということであった。
我が国政界は、この日本再興の為のかけがえのない若き人材を失ったのだ。かけがえのない同志を失ってしまった。
これらの思いが入り交じって、「しまったー!」という声にならない叫びがこみ上げたのだった。
次に、辻林君に、この度の総選挙において私の中川さんへの「激励ビラ」をもって、堺から北海道帯広まで中川さんの選挙応援に行ってくれた同志に、中川さん死去のことを知らせるよう指示した。
そして、秋祭りの野々宮神社を辞去した。だんじりの宮入に際して、喪中のような気分でいることはふさわしくないからだ。
例のイタリアでのサミットにおける「酩酊記者会見」で中川さんが閣僚を辞任した後、拉致被害者救出集会で彼と同席したときに彼に言った。
「僕のところにも、中川さんを励ましてください、という手紙が多く来るんですよ。僕は、大賛成です、どうかみんなで中川さんを励ましましょう、と返事を書きましたよ。」
すると、中川さんは、本当にうれしそうな顔をした。その素直な笑顔が思い出された。
ひょっとすると、七月に本会議場で私の席まで来てくれたのは、この中川さん励ましの手紙が、どのような暖かい反響をもたらしたのかという報告だったのかもしれない。
マスコミの執拗な報道に対する怒りが甦った。
彼のサミットにおける記者会見の報道は、誇張・偽装である。彼の「酩酊」しているかの如き数秒の場面を連続して何十回となく繰り返して編集し、これでもかこれでもかとマスコミは各家庭に流した。これでは、全記者会見中、彼はこの「酩酊」した調子だったと印象付けられてしまう。
同じイタリアでの12年前のサミットで、「体調不良」の為、サミットの首脳会議を欠席した総理大臣がいた。これに対して、中川大臣は、本来の任務である会議は立派にこなした。日本のために実に立派にこなした。
その任務を終えた後の記者会見だけが「体調不良」だった(「酩酊」も「体調不良」の内だ)。
この点で中川大臣は、会議に出席できずに何のためにサミットに行ったのか分からない社会党の総理大臣とは全く違う。
しかしマスコミは、「体調不良」で会議に出席できなかった総理大臣のことは何も言わず、中川さんの出席した会議での功績と成果のことは無視して、記者会見における「体調不良」だけを執拗に非難し続けた。
このことを考えると、急に、あの素直なナイーブな感性をもつ中川昭一さんがかわいそうでかわいそうで仕方がなくなった。
彼の内面は、どれほどこのマスコミの報道の仕方で傷を負わされたか計り知れない。マスコミは、社会党と社会党的なもの、左翼と左翼的なもの、の偽善は報道せず、祖国日本に忠誠を誓い日本的なものに愛着を感じ、それを保守しようとする魂を執拗に攻撃する。
中川昭一さんは、この攻撃対象になっていたのだ。
何故亡くなったのか、今の時点では分からない。分かっているのは、このマスコミの攻撃のなかで中川昭一さんは亡くなったということだ。
5年ほど前か、私と飲んでいて、中川さんは亡父中川一郎氏のことを語り泣いたことがあった。
民社党の私の親分である春日一幸は、中川一郎を高く評価していて、選挙になるといつも北海道の中川一郎の応援に行ったという話の後だった。
「僕の親父は自殺したんです」と言って彼は泣いたのだ。
 
中川さん、つらいときに、いつも心にあった父上と久しぶりに再会したんだ。永遠の安らぎのなかで、親子ゆっくりと語り合ってください。祖国日本の為に殉じようとする魂をもった中川昭一さんのご冥福を心よりお祈りします。
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