4114 ノーベル平和賞は今年度最大のジョーク 宮崎正弘

飛び込んできた今年度最大のジョーク、オバマ大統領にノーベル平和賞。次はオサマ・ビン・ラディンが受賞しても不思議でなくなった。
テロリストにノーベル平和賞が与えられたことがある。故アラファトPLO議長だ。
イスラエルとの和平交渉にのってオスロ合意に至ったのは、弱体化したPLOの最後の選択だった。それ以外、選択の余地はなかった。ラビン、ペレス両イスラエル指導者と三人同時受賞だった。それ以前まで米国はしばしばアラファトを「テロリスト」呼ばわりしていた。
オサマ・ビン・ラディンはCIAの手先だった。アフガニスタンからロシア侵略軍を撃退し、米国はパキスタン経由の武器援助をやめ、反ソ活動家への援助も打ち切った。
政治環境が変わると、かれはテロリストと認定され、世界に指名手配された。ならばもう一回転向し、和平交渉に乗ってきたら、オサマだって受賞資格がある。
バラク・フセインは「核なき平和」を訴えた。理想を述べたにすぎず、ロシアは同意するそぶり、手をたたいて喜んだのは北京だった。バラク・フセイン・オバマ路線によって、もし米ロが戦略的核兵器を削減すればバランス上、中国の核戦力が突出することになるからだ。
 
オバマは受賞を聞いて「これは『行動を起こせ』という呼びかけだ」と受け取った。
ノーベル平和賞が、つぎの国際政治のパラダイムをオバマに強制することになる。露骨な政治的思惑だが、ノルウェー政府の考えそうなことである。もっともキッシンジャーやカーター、スーチー、金大中と、へんな受賞がつづき、もはや「権威」は雲散霧消しているのだが。。
ロシアが核兵器削減に前向きなのは、じつは「過剰」な在庫の中に旧世代の核兵器(事実上、もっていても仕方がない)からプルトニウムを取り出して、原発原料に回したいからである。
米国も「過剰」なICBM在庫を削減し、管理コストを下げたい。そうした経済コスト意識が裏面に潜んでいる。手放しで喜んでいる人たちは偽善者の本質を、その打算と汚らわしい打算とを軽視するか、無視する。
ちょうど筆者は福田恒存氏の「文学と戦争責任」を読んでいた。(下欄、書評参照)偽の英雄を、現代世界はまたでっちあげた。その人の名はバラク・フセイン。
夢を持たぬ民族の英雄は、たかだか機会という偶然性の打算的な利用にすぎず、人心の機微と世間の道義心とを弄ぶ処世術の選手に他ならない。『福田恒存 評論集 一匹と九十九匹』(麗澤大学出版部)
福田恒存氏の評論集は全20巻+別巻1.ようやくいま12巻までそろった。あと八巻。
隔月配本とはいえ、これを同時に読み続けて追いかけるのはいまさらながらちょっとした読書技術が必要だろうと思われる。
こんどの配本では戦争直後の文壇の動きや、戦争前の雰囲気など、じつは評者(宮崎)が読み飛ばした論文ばかりが収録されている。はじめて読む文章が夥しい。いや、殆どである。
昭和二十年から二十三年頃、福田さんはこんなことを書いているのかという発見は新鮮な驚きでもある。要するにその時代、評者(宮崎)は生まれたばかりであり、ものごころ着いた頃、福田氏はすでに文壇で名をなしておられ、文学青年時代の氏は小生からは仰ぎ見る存在だった。
それゆえ後智恵の感想を言えば、戦争直後の氏の文章は後年の保守の固まりのような勢いが希薄であることが第一の特徴だ。
しかし冷静かつ冷徹である。徹頭徹尾、福田氏は時代に冷ややかなのである。
今回配本の題名は、収録された論文のタイトルでもあるのだが、「一匹と九十九匹」。これは聖書にあるイエス・キリストの言葉で、戦後大流行の論議だった「政治と文学」論争に援用しつつ、羊飼いが一匹を見失っても九十九匹を野に放ち、一匹を追いかける営為を饒舌に論じている。
ほかに芥川龍之介、太宰治論、そして夏目漱石の孤独感。前の全集に未収録の原稿も二本入っている。これは福田ファン必読である。
それにしても、これらは敗戦直後の文章が殆どだが、福田氏の理性の中では、敗戦ショックをいち早く克服し、冷静冷徹に時代の混乱を見極め、混沌を観察し、乱世のなかで思想の軸をみごとに確立させていたことが分かっておもしろく読んだ。
氏はたとえば「文学と戦争責任」に関してこう言う。
「かれらは心ならずも戦争を正常化し美化する文章を書かざるを得なかった。あるいは国策的な研究団体や軍需工場にその生活の保障を求めなければならなかった。この事実をみとめる以上、彼らの戦争協力は所詮たんなる犠牲にすぎなかったはずである。
かれらは戦争責任を負ふべきものではなく、その犯罪の被害者であり、その残虐行為のいけにへにほかならない。もしこれを戦争犯罪として指弾すべきものとすれば、日本国民にしてその罪をのばれうるものいくばくであろうか。国民総懺悔の愚劣なるはいうをまたない。(中略)
かならずしも英雄の□と批判精神の誠実とをみとめようとはおもはぬ。人々は喉もとすぎれば熱さを忘れるのであろうかーー今日の自由の空気をすかして見ることないに直にあの暗黒時代をのぞいて見たまへ。世上に氾濫する姦(かまびす)しい大言壮語はたちまちにして窒息せしめられるであろう。ぼくたちの知っていることは、今日の自由の戦士かならずしも昨日の勇者でなかったことだ」。
そして次の言葉が続く。
「人々は一人の思想の戦士を偶像化し、デモクラシーの英雄を作り上げる。が、そこにかれの打算と処世法を、それにもかかはらず死の犠牲を招いた不注意とが見落とされている。しかも、この見落としには見るものの不明ではなく、じつは政治的な作為があづかっているのである。
古来、我が国に英雄というものは存在したことがなかった。夢を持たぬ民族の英雄は、たかだか機会という偶然性の打算的な利用にすぎず、人心の機微と世間の道義心とを弄(もてあそ)ぶ処世術の選手に他ならない」。この文章は日本の論壇が大混乱に陥っていた昭和二十一年十一月に書かれた。オバマ大統領のノーベル平和賞というニュースを聞きながら、この部分をまた読み返した。
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