大学時代に平凡社の歴史事典編集部で原稿とりのアルバイトをしたことがある。戦後、数年しか経っていない頃なので勉強するよりは、その日の糧を求める方が先決であった。お陰で大学を出るのに七年もかかったが、今になってみると得難い体験となった。
戦後、間もない時期だったから平凡社は東京・八重洲口の雑居ビルにあったが、月に一度の編集打ち合わせ会議に東大西洋史の村川堅太郎教授、林健太郎助教授はじめ錚々たる学者が来て、西洋史編集部と辞典に執筆する学者を相談しながら、選んでいた。
アルバイトながら末席に座って聞く機会を得た。そこで決まった辞典項目の原稿を貰うのが私の役目。嫌でも西洋史について人一倍の知識を持たざるを得ない。大学の退屈な授業よりも遙かに勉強することが出来た。この知識が共同通信社の政治部に来て大いに役に立った。
政治部の仕事は歴史の断片を集める様なものである。一〇年、二〇年後になって歴史の評価に耐える記事を書かねばならぬという問題意識を持って、仕事をしきてきたつもりだが、なかなかそうは参らない。先見性のある記事を志しながら、政治情報の渦に巻き込まれて、今になってみると内心忸怩たるものが残る。
当時、心を惹かれたたのは新進気鋭の林健太郎助教授であった。ドイツ史の碩学であったが、荻窪に美しい奥さんと住んでいた。二度目の結婚だった筈だが、奥さんから紅茶を振る舞われて居心地がよかった。原稿を書く筆を休めて、流行していた唯物史観と対峙した実証主義に基づく歴史観を林先生から教えて頂いた。
ドイツ現代史では村瀬興雄氏のお宅にもよく行った。ナチス・ドイツの勃興期に詳しく、それにつられて枢軸派の大島駐独大使が橋本欣五郎氏に送ってきた西部戦線のドイツ写真集を持っていると言ったら「それは貴重な資料だから編集部に提供したら」と言われた。表紙にはパリのエッフェル塔を背景にしたヒトラーが写されている。結局は私の手元には戻ってこなかったが、歴史事典に使われている。
フランス史の井上幸治氏のお宅は浦和にあった。通いつめる中に「秩父事件」に詳しい人だと分かり、頂戴する原稿をよそにして秩父事件のことばかり聞いた。ロシア史の岩間徹氏の家は巣鴨にあった。遅筆な方で、そのお陰で夜食をよくご馳走になったが、忘れ得ぬ人である。夜が遅くなるので自宅に原稿を持ち帰り、原稿を読む機会が増えたのでロシア史に詳しくなる副産物が生まれた。
それに較べると現代史の江口朴郎氏はいつも原稿が出来上がっていた。電車の中で読むわけにいかないので、江口先生の原稿は辞典で読むことになる。学者らしからなぬ学者はアメリカ史の中屋健一氏。江戸っ子かと思うくらいのベランメー調で異彩を放っていた。
中屋氏は東大卒後、同盟通信社、共同通信社記者を経て、東大教養学部教授となったことは後に知った。登山家で日本山岳会理事、日本ペンクラブ理事。亡くなれて二〇年の歳月が経つが、東大西洋史の碩学たちのほとんどは、この世にない。
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