北朝鮮にも週刊誌があると韓国の聯合ニュースが伝えている。そこに日本の初代首相・伊藤博文をハルビン駅構内で暗殺した独立運動家の安重根のことが書いてある。
これまでも北朝鮮では安重根の義挙を認めながらも、「暗殺」の手段は評価していない。韓国では安重根を日韓併合に反対した「抗日闘争の英雄」として評価されているのと違いがある。
この違いが北朝鮮の週刊誌「統一新報」でも出ている。安重根の暗殺行為は「個人テロ」としている。同誌によれば「卓越した指導者にめぐり会えず個人テロに頼らざるを得ず、ついには命を投げ打っても独立の念願を果たせなかった民族の風雲児」という評価。
<【ソウル25日聯合ニュース】北朝鮮週刊誌の統一新報は24日、独立運動家の安重根(アン・ジュングン)を「民族が記憶する反日愛国烈士」と評価しながらも、1909年の伊藤博文処断については「個人テロ」だと主張した。
北朝鮮ウェブサイトの「わが民族同士」が25日に伝えたところによると、同誌は安重根の義挙100年を迎え、その一代記を紹介しながら、北朝鮮で関連の映画と演劇が制作された事実に言及。その中で、「歳月が流れても祖国と民族のために捧げた愛国者の人生は、民族の記憶の中に永遠に残ることになる」と強調した。
同誌は一方で、安重根は「卓越した指導者にめぐり会えず個人テロに頼らざるを得ず、ついには命を投げ打っても独立の念願を果たせなかった民族の風雲児」だと主張した。(聯合)>
「伊藤博文暗殺と安重根」といっても日本の若い世代は、ほとんど知らないであろう。だが、日本に併合された朝鮮半島側には、その怨念が今でも生き続けている。ウイキペデイアには「伊藤博文暗殺」「安重根の最期」「後世の評価」と詳しい記述がある。
伊藤博文暗殺
1909年10月26日、その日哈爾浜駅構内に於いて、満州・朝鮮問題に関してロシアの蔵相ココフツォフと会談するためにハルビンに赴いていた韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文に対し安重根は群衆を装って近づき拳銃を発砲した後、韓国独立と叫びながら大韓帝国の国旗を振った。安重根はその場でロシア帝国の警備員に逮捕され2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡された。
留置中、伊藤博文が死亡したことを安重根が聞いたとき彼は暗殺に成功したことを神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたとされている。
大韓帝国のカトリック教会の主教からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、懇意であったホン司祭は安重根のもとを訪れ、支えとなった。安重根も収監中は官吏に対し自分を洗礼名の「トマス」で呼ぶように主張したともされる。
彼の決意の堅さを表すエピソードとして、同志とともに薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染めた断指同盟の逸話も伝わっている[要出典]。
安重根の最期
安重根は旅順の関東都督府地方院で死刑の宣告を受けたが、当然予期されていた死刑判決に対し安重根は判決そのものが不当であると怒りを露にした。 安重根の裁判を統轄した判事は、判決後死刑執行までに少なくとも二、三か月の猶予が与えられるとしていたが、大日本帝国中央は事件の重大性から死刑の速やかな執行を命じた。
安重根は判決を不服として上訴を行い、担当検察官であった溝渕へ自分の随筆「東アジアの平和」を書き終えるために必要な猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組与えてくれるよう願い出た。
安重根の所業を義挙として共感を示していた溝渕検察官も二つ目の望みを叶えはしたが、安重根の処刑の後、しばらくして自ら検察官の職を辞することとなった。
安重根はまた自分が軍人扱いの「捕虜」として銃殺刑に処せられることを臨んだが、犯罪者として絞首刑に処せられることとなった。
1910年3月26日、安重根は旅順口区の旅順刑務所内にて絞首刑に処せられた。一方で死を賭した安重根の願いとは裏腹に当時大日本帝国による大韓帝国併合に反対の立場であった大日本帝国政府重鎮伊藤博文公の死は、大日本帝国による大韓帝国領土の取り込み、いわゆる韓国併合を加速させることとなってしまった。
後世の評価
安重根への評価は、大日本帝国による朝鮮半島の統治および安重根の闘争活動を肯定するか否かで国ごとに次のように分かれている。
北朝鮮では安重根の救国の意志は認めるものの、その手段としての「暗殺」は評価しない。「併合に対して消極的であった伊藤博文を暗殺の対象に選んだ」ためである。教科書では金日成の反面教師のように扱われる。
現在の大韓民国では「抗日闘争の英雄」として評価され、「義士」と呼ばれており、暗殺者(テロリスト)であるものの、安重根を単なる殺人犯とする評価はまれである。
またソウル特別市には安重根の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている。なお、暗殺行為を除いた人間安重根については、高潔であったとの評価が韓国では定着しているが、東学党の弾圧等の悪政にかかわっているという見方もある。 安重根の功績を称えて、韓国海軍では、2008年に完成した潜水艦の艦名に「安重根」を用いている。
安重根は暗殺者であるが、その暗殺に意味を付加しうるかどうかは伊藤博文の政治業績をどう評価するかの思想的立場で評価が変わる。
①義士説
1905年第二次日韓協約(乙巳保護条約)を結び、日本は韓国から外交権を奪って事実上の保護国とした。統監府が漢城に設け、初代韓国統監には伊藤博文が就任した。韓国支配の象徴的存在であった伊藤博文の暗殺は、民族の独立を願う志士の純粋な行動として、幕末の攘夷志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事から「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声があがるほどであった。
ただし、明治時代の日本人は、立場が違っても、相手を忠義の志と見れば、一定の敬意を払うことがめずらしくなく、そうした敬意は、日本の幕末において愚かにも時流を見誤った志士同士の暗殺が頻発した歴史的共感から来るものである。
②テロリスト説
伊藤博文は大韓帝国の併合には反対していた。それゆえ「伊藤博文が朝鮮の独立をのぞんでいた」と見る立場からは、「伊藤博文暗殺こそが韓国併合を実現させた、あるいは実現を早めた」として、安重根を「先の見えないテロリストである」と評する。
③人身御供説
伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、 伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が所持していたのは拳銃である。 弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言していることなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くある。この説においては安重根は事件の真相を闇に葬るための人身御供とされる。(ウイキペデイア)
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4225 安重根・義挙は「個人テロ」 古沢襄

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