4246 全国に散らばる古沢さん 古沢襄

鹿児島在住の古沢さんから以下のメールを頂戴した。宮崎の古沢さんからメールを頂戴したこともある。数は僅かとはいえ、全国に散らばる古沢姓があることは、壮観でもあり楽しい。いずれも鎌倉武士の末裔が、時代の風雪を乗り越えて残ったことを表している。
<はじめまして。自分の苗字について勉強になりました。祖父が大分の竹田出身です。鹿児島には電話帳を調べた範囲では、ほとんどいません。愛媛から香川にかけて古沢性がそこそこいるとの話を聞いた事があります。このブログを読んで大分から豊後水道を渡り広がっていったのかな、と想像します。鹿児島在住古澤。>
早速、ご返事を出した。
<鹿児島には何度か行きました。南日本新聞社の編集局長が、薩摩隼人の風貌を残した快男児で、西郷隆盛の墓を詣でた記憶が鮮烈です。
宮崎の古沢姓、鹿児島の古沢姓は島津公に降った大分の古沢一族の末裔なのでしょう。源流を探れば、鎌倉武士の末裔。それが九州の地で残ったのは壮観です。
お説の様に四国に古沢姓があるのは、豊後水道を渡った大友一族の古沢氏や古庄(ふるしょう)氏の末裔でしょう。
大友家が九州北部で勢威を振るった時代の名残です。
姓氏家系大辞典の「古沢」の項には「古沢姓は播磨、備前、信濃、武蔵、讃岐、摂津などにも多し」と記載されております。>
私の古沢姓は”本流の古沢”ではない。元はいえば赤松姓であった。関東の多賀谷大名の配下だった地付きの豪族から成り上がった侍大将。多賀谷大名には十人の侍大将がいた。
元亀二年、関東の雄だった後北条氏が大軍をもって多賀谷大名の居城である下妻城を囲んだ。多賀谷政経は同盟を結んでいた佐竹義宣の救援を求めたが、後北条氏の大軍の足が速い。やむなく赤松常範の一軍に出動を求めて下妻・古沢邑の湿地帯で後北条氏軍を迎え撃った。佐竹軍が駆けつける時間稼ぎだったといえる。
だが、湿地帯という地の利を生かして、赤松常範は力戦し、独力で後北条氏軍を退けている。この赤松常範の武勇は「赤松ガ左文字ノ刀フリケレバ、皆クレナイニ、古沢ノ水」と世人の喝采を浴びている。
この軍功によって赤松常範は下妻・古沢邑を与えられ、名を古沢常範と改めた。今でも下妻市や八千代町には古沢姓や赤松姓が多い。八千代町川尻に赤松家の氏寺である赤松山不動院があるが、そこに開祖の赤松祐弁の出自を播州・赤松氏と刻んだ「祐弁墓碑銘」が現存している。
だが、元弘の変で活躍した赤松則村(円心)と赤松祐弁を結びつける資料はまだ発見されていない。さらに赤松祐弁の直系だった赤松常範の系譜も、すでに断絶している。下妻市や八千代町に残る古沢姓や赤松姓は、直系でない支族といえよう。私は自分を含めてこの家系を赤松系古沢氏とよんでいる。
          
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