漫画家の杉浦幸雄氏は女性礼賛論者だった。叔父に当たるから私も影響を受けて女性礼賛論者。だが女性なら誰でもいいというわけではない。凜として気高さがある女性が好きである。そういう女性が少なくなった。
信州・上田から興った戦国の武将の真田幸村にはお田の方という娘がいた。お田の方は幸村と隆清院との間に生まれた女性。隆清院の母は一の台といって、豊臣秀次の継室。右大臣・菊亭大納言晴季の娘である。
秀次は秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となるが、秀吉と淀君の間に秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。淀君と秀頼を溺愛した秀吉は秀次を高野山に追放し、切腹を命じている。享年二十八歳。辞世は「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。
この時の秀吉の処断は苛烈をきわめた。秀次の家族や女人らを三条河原に引き出し処刑している。処刑者は秀次の遺児(4男1女)と正室・側室・侍女ら39名に及んだ。その中にお田の方の祖母・一の台もいる。
隆清院は処刑を免れたが、仏門に入って秀次と一の台の菩提を弔っている。やがて幸村と結ばれて一子・お田の方が生まれた。
大阪夏の陣で幸村は討ち死。徳川方は隆清院とお田の方を捕縛した。このことを知った真田信之(幸村の兄)は二人の助命嘆願をして、後にお田の方は江戸城大奥に仕えている。十五、六歳の少女だったが、幸村の娘として気高く、気品を備えていたという。菊亭大納言晴季の血筋と言った方がよいのかもしれない。
真田一族の名が残ったのは真田信之の功績といえる。信之は徳川譜代の重臣・本多平八郎忠勝の長女・小松殿を妻にしている。徳川家康に忠節を誓い、信任を得ている。兄と弟が敵・味方に分かれるのは、家名を残す戦国の知恵なのだろう。
お田の方は二十歳で佐竹義宣の実弟である多賀谷宣隆に嫁した。やがて東北の亀田藩主・岩城重隆の母として”賢母”の名を残している。
わが子・重隆に対する訓育に厳しく、書や礼儀作法、武芸に至るまで自らの手で教えている。この訓育のお陰であろう。重隆は亀田藩主として名君といわれている。。藩政において新田開発や城下町の整備などで功績があって「月峰公」と呼ばれた。
夫の宣隆の死後、顕性院と称したお田の方は、亀田に顕性山妙慶寺を建立している。お田の方の母・隆精院は寛永十年に死去し波乱の生涯を閉じた。京都の菊亭大納言晴季邸で盛大な「報恩供養法会」が営まれたという。お田の方は特使を派遣して、隆精院を弔っている。
お田の方は、ますます法華経の信仰を厚くする毎日だったという。大阪夏の陣で討ち死した武将の姫として誇りを失わず、亀田藩主の母として薙刀の指南をするほど武芸にも優れた才女だったが、その凜とした気高さの裏には、祖母・一の台の悲劇や名将といわれた父・幸村を失った悲しみを背負った生涯がある。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
コメント