当時の米ソ独首脳が集合
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/10/31/20091101k0000m030078000c.html
今日は11月6日、あと4日経つと、11月9日、「ベルリンの壁」崩壊20周年になる。当時私はこの知らせを受けて、早速ベルリンへ飛び、東の警察官のチェックなしに初めて「壁」向こうに入っていくのに最初は銃を持った東の警察官にいきなり打たれやしないかと、おそsるおそる、用心して入ったものだった。「壁」にも登ってみた。
もっとも厚い「壁」はブランブルグ門の前に高くそびえたっていた「壁」で、道路からは見えなかったが、みんなに手を貸してもらって登ると何と幅一メートルもあったから驚いた。
その後は、日本の雑誌「中央公論」や「諸君!」「正論」新聞社からの原稿依頼がひっきりなしにあり、毎週のようにベルリンへ足を運んだものだった。
そうかあ、あれから今や20年にもなるのか。そういえば、この「ベルリンの壁」崩壊では20周年記念式の式典の火蓋を切って10月31日、当時の米ソ独首脳だったブッシュ元米大統領(85)、ゴルバチョフ元ソ連大統領(78)、コール元独首相(79)が31日、ベルリンに集まった
式典では、3氏が壇上で対談形式で発言。ブッシュ氏は「私たちは冷戦を終わらせ、平和を構築することができた」とあいさつ。ゴルバチョフ氏は「89年6月時点で、東西ドイツ統一は21世紀の課題だと考えていた」ことを明かし、ついで「統一は独国民が主人公だった」と述べている。
これに対し、コール氏は「ここにいる2人はドイツにとっても、私にとっても最重要のパートナーだ」と語り、「私の半生にわたって存在した壁が崩れ、国民が信じていなかったドイツ再統一を一緒に成し遂げたことは誇りだ」と感慨深そうに語っている。
ブッシュやゴルバチョフはさておき、コールにとってこの場にミッテランの姿がないのをもっとも残念がったのではないだろうか。
ミッテランが大統領になったのは1981年5月、コールはその先をおって翌年、首相に就任し、その間、二人はミッテランがガンで96年、亡くなるまで時には笑い、時には大げんかをしながら、互いに、手を取り合ってドイツの戦後の悲惨な分断国家という宿命のベールを剥ぎ取るために、懸命に尽力したからだ。
確かに最初は東西ドイツ統一を英仏首脳は「快く思っていなかった」、当時の外交文書を公開
http://www.afpbb.com/article/politics/2659810/4850101
というようにミッテランも、ドイツの統一に関しては、サッチャーと共に快く思わず、妨害をしていたことは事実だからだ。(註:中でもサッチャーは終始、大反対で、したがって今回の20周年記念には列席していない)
だが、ミッテランは違った。コールの統一の情熱にほだされ、いつしか彼はコールの大の友となって、この歴史的大事業に手を貸すことになるからである。
今回の記念式典にミッテランの姿が無かったのをもっとも残念がったのはコールだったに違いない。(1996年ガンで亡くなったミッテランの葬式に参列したあの鋼鉄のようなコールが涙を流している)
最近、このいきさつが独仏共同公共テレビ「ARTE](註:このテレビ創設に尽力したのもミッテランとコール)で放映された。
その物語をここに再現してみようと思う。
先ず当時世界を動かしていた人物の産まれた年、ミッテラン(1916年)、サッチャーとブッシュ(1924年)、コール(1930年)、ゴルバチョフ(1931年)、みな第二次世界大戦を経験している。
というわけで、敗戦国のトップのコールを除いて他は多かれ少なかれ、ドイツには敗者への侮蔑と反面、警戒と疑心暗鬼の念を抱いている年代。
この中でもっとも戦争の実態を熟知していたのはミッテランで、波乱万丈の一生送っている。若い頃は極右運動に参加、反ユダヤ主義のファシスト団体に所属していたし、ヴィシー政権下では積極的に活躍し、その後はドゴールと歩調を合わせ、反独に身をかわしかと思ったら、いつの何かドゴールを対立し、社民党に身を寄せ、ついにそこを根城に大統領に立候補し選出されるという離れ業をやってみせる大胆不敵な人物。
それだけに肝っ玉も太い。その根底にあるのは「愛国」である。そのためにはどのような手段もとってみせる煮ても焼いても食えない政治家である。この人物と親交を結んだコールは不幸中の幸いだったといえそうだ。
コールもそのことを念頭におき、ねっこにある「愛国」を原点に、ドイツの再統一へと走り出し、そして成功して見せた。
ソ連の経済が破綻しかけている・・・というのが、一部の機関や政治家の間で、ささやかれ始めたのは,ブレジネフ死後のこと。ドイツは東西分断によりソ連側=東独、米国側=西独に分れ、米ソ冷戦の最前線にあって情報戦を戦っていただけに、オモテ向きは犬猿の仲を装い、水面下では共に繋がっていた事からこうした情報は世界のどこより早くキャッチしていたのだ。
これにも英仏米共に、東西ドイツの情報には、一歩譲っているほど。ブレジネフ死後、アンドロポフ、チェルネンコとトップが代わる中、ミッテランは1981年、大統領就任直度、西独のシュミットに招待され、彼の質素な別荘に誘われて出かけている。この時、ミッテランはシュミットから「ところで、ソ連の状況をどう思うか」と尋ねられ、ミッテランは即座に「別に変わらない。悪くないと思う」と答えている。
話はそこまでで別に進展したわけではなかった。シュミットにしてみれば、恐らくミッテランはソ連事情を知っていてとぼけているのか。それとも本当にソ連事情を知らされていないのか」内心計りかねていたのであろう。
やがて、チェルネンコも1985年3月亡くなる。この葬式で、西独は当時のヴエアイツゼーッカーとゲンシャー外相が参列した。英国は皇太子を米国も第一人者を送らなかった。フランスもそのつもりでいたのだ。そこへモスクワからミッテランの側近から電報三通が送られてきたのだ。
何が何でもミッテランが来るべきだというのだ。理由はこれまでと違い若いやり手のゴルバチョフというのがソ連のトップに立ち、どうもソ連を本気で改革するつもりらしい。だから、今後のこともあるからと気がつき、ことを急いだ。
葬式にすでにゴルバチョフと懇意で会見している事を知り、ミッテランもゴルバチョフとさっそく会談を行なっている。
ゴルバチョフが「ペレストロイカ」を標榜し、国内改革を実施している間、フランスはその様子をじっと観察している。一方西独は、ゴルバチョフとかなり密接に接触していたらしく最初は1988年東独のホネッカーガーがボンをそして翌年1989年6月には、ゴルバチョフがボンを訪問しコールを訪問している。
いやその前に、ハンガリーでは5月2日、ハンガリーとオーストリア国境の鉄のカーテンにはさみをいれ、国境を開けて見せた。
ミッテランはこの下準備については、コールから報告を受けている。これで「東西の壁」一部が崩壊したと悟ったのだ。もう、止めようとしても止まらない。事実、このことを知った東独人たちは、ハンガリー経由で次から次へと西へ逃亡し始めたからである。
6月に入ってゴルバチョフがボンを訪問した時は、ソ連は食糧危機に見舞われ、コールに食料品を援助してくれないかと頼んでいる。
これをしったコールは早速「ベルリンの壁」崩壊と同時にドイツ統一の話までゴルバチョフに仕掛けている。どこまで本気なのか、ソ連がかなり深刻な経済危機に面していることは事実で、この時ゴルバチョフはライン川を見詰めながら「ライン川の水の流れは、せきとめられない」と暗示的なコールに話している。
早速コールはこのことをミッテランに伝えている。そこでミッテランはゴルバチョフに電話をいれて、何があっても今回の件では武力を行使しないとの約束を取り付けている。その後ゴルバチョフはをパリへ飛び、」出かけミッテランを会い、さらにこれにミッテランは三項目の条件とつけている。
1.ドイツが東部旧ドイツ領土を放棄すること
2.ドイツが核兵器、細菌兵器、科学兵器製造を放棄すること
3.ドイツがドイツマルクを捨ててユーロ導入に賛成すること。
コールは最初の頃はこの条件を呑むのをためらっていた。かくして1989年11月9日、真夜中「ベルリンの壁」は崩壊した。そのドイツ人の歓喜はいかばかりであったか!
これは平成5年の天皇陛下のお歌にもある。ベルリン東西を隔てし壁の払はれて「歓喜の歌」は我を迎ふる
さても「ベルリンの壁」はゴルバチョフの約束どおり武力による鎮圧はなく、無事無血で終った。経済破綻したソ連である。西側、特に西ドイツのヘルプを期待してソ連は、「ベルリンの壁」撤回との引き換えにカネとモノによる支援約束を、優先させたのだ。
このことに胸を撫で下ろしたものの、ミッテランは次の課題で悪夢にうなされることになる。
だがこの先、ドイツが「統一」という課題をオモテに出して来ることは、間違いのない事実で、コールも遭えば、この問題を取り上げていた。、そのため先の欧州k議会で「統一」を口にしたこと、コールに促され記者会見をしたことも事実である。
しかし、「統一」を実現することには内心反対だった。フランスの世論も反対が大勢を占めていた。ドイツは東西に分断したままの方がいいというのだ。「ル・モンド」紙もこの問題に関しては、消極的なコメントしか出していない。
11月18日EU12カ国のトップ会談を行なわれた。、この時サッチャーなどは、ドイツ再統一など論外と
ばかり、「絶対は対!}をまくしたて一歩も譲らなかった。多くの国もそれには同調しているようだった。
この模様を一部始終目撃していたコールは11月28日、ドイツ統一に関する10頭目を突如公表する。事前に何の相談も受けなかったミッテランは怒りをあらわにする。
12月15日 早速マルタで、ブッシュ+ゴルバチョフ会談が行なわれた。この際ミッテランは事前に彼らの意見を打診している。その答えはこうだった。ゴルバチョフ「21世紀の課題であり、ドイツ統一は百年
かけて行なえばいい」ブッシュ「ドイツの統一? 早くても20年くらい掛かる。心配することはない」
12月20日、ミッテランはボンのコールを訪ねたあと、東独へ出かけている。西ドイツではすわっ、ミッテランが「統一」反対を唱えて東独を挑発するのではないかと、色めきたち、ドイツ国民は息を詰めて彼の行動を見詰めていたものだ。
結果はどうだったか。「統一するにしても民主的でなけけらばならない」と暗に東独体制をちくりと皮肉りながら、統一に「ウイ」のサインを入れるものだったのだ。
これには理由がある。
1.東独国民の大半が「統一」に賛成していた、
2.「ベルリンの壁」崩壊とこの東独の動きを第二次世界大戦後、ソ連の隷下におかれ辛酸を嘗め尽くして
きたワルシャワ体制に組み込まれたいた東欧諸国が「ビロード革命」と称して、ドミノ現象を起こして、ソ連からの脱却を始めた。ポーランド、チェコ、バルト三国・・・最後は何と12月25日、キリスト教の最大の行事であるクリスマスの12月25日に、ルーマニアの独裁者チャウシエスク夫妻が射殺されたことだ。
翌年1990年1月4日コールの姿はミッテランの家にあった。二人は最終的に「ドイツ統一」にゴーサインをいれその条件として
先の
1.30%に及ぶ旧ドイツ領土の放棄
2.ABS兵器製造の放棄
3.マルクを放棄しユーロを導入
さらに独仏両国はソ連の窮状を救うために援助することで合意した。
90年2月10日、コールはモスクワに飛びゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフのゴーサインを貰う。ただしゴルバチョフの条件は
1.ドイツはNATO加盟から脱出することをも要求している。
最後にはゴルバチョフのドイツのNATO脱退条件は退けられた。いうなれば、ドイツは当時のソ連事情を見透かして札束と物資で、ドイツ統一をソ連から買ったのである。
かくしてドイツ統一は「ベルリンの壁」崩壊の一年後1990年10月3日に達せ鵜することになった。
ミッテランはドイツ統一の半年前7月15日コールの招待を受けボンで演説をしている。この際、「自分はふるさとをこよなく愛している。ふるさとを愛していることは国を愛していることである。この思いは、かつて敵と味方に分かれて戦った戦士の思いとも共通する。
我々はその思いを大切にして、EUという立場で、今後世界に働き掛けていくこと。EUの思いは西欧・東欧諸国の、EUに結集するこれらの国々の、そしてそこに住むふるさとの一人一人の思いである」というニューアンスの演説を行なっている。
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