4328 メッケルの来日は功罪あい半ばした 古沢襄

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がNHKの大河ドラマ化されるという。日露戦争で活躍した秋山好古、真之兄弟の話が中心となると思うが、その背景として明治陸軍の育ての親だったプロイセンのメッケル少佐の招聘について語らねばならない。
明治陸軍は大村益次郎・兵部大輔を頂点として建軍されたが、フランス陸軍の兵制をモデルにしている。日露戦争で活躍した山県有朋、大山巌らはフランスに留学して、ナポレオン式軍制、戦術を学んで帰国している。明治陸軍が明治三年から二十二年までに雇い入れたフランス軍人は五十四人。陸軍士官を養成する幼年学校の開校当時は、教官はすべてフランス人、数学の九九や号令に至るまでフランス語だったという。
これに異を唱えたのが桂太郎。長州閥で山縣有朋の直系である。明治維新後、横浜語学学校で学びプロシャへ留学している。三年間の滞在後、帰国して山県の知遇を得て、明治八年にドイツ公使館付武官になった。
桂は普仏戦争で勝利したプロシャの兵制を採用すべきだと唱えて、山県に働きかけている。明治十七年に大山陸軍卿を団長とする欧州兵制視察団が派遣されたが、桂は川上操六大佐とともに大山陸軍卿にドイツ式兵制を採用するよう強硬に迫った。
この結果、陸軍士官学校の教官はフランス軍人、陸軍大学校の教官はプロシャ軍人という妥協がなって、プロシャ陸軍切っての逸材と喧伝されていたメッケル少佐が来日した。
明治十八年三月にメッケルは着任して陸軍大学校の教壇に立ったが、その年俸は五千四百円。当時の日本陸軍大将が六千円、中将が四千二百円だったというから、明治陸軍がメッケルにかけた期待のほどが分かる。
日本陸軍のドイツ贔屓は、メッケル来日にまで遡る必要があると思っている。明治二十一年に六個師団編成の近代陸軍が誕生するが、メッケルの指導によって軍制の基礎はフランス式からドイツ式に変わり、士官学校教育もドイツ式になった。陸軍大学校の第一期生では、東条英教大尉(東条英機元首相の父)、山口圭蔵大尉、井口省吾大尉の三人がドイツ留学を命じられた。
草創期の明治陸軍に与えたメッケルの影響は大きかったといえる。だが、その功績はせいぜい日清戦争までで日露戦争では行き詰まり、大東亜戦争で破綻したとみる人も多い。メッケルの作戦思想は大陸国家としての陸軍の建前であって、海洋国家の作戦思想には馴染まないというのである。
事実、海洋国家に欠かせない陸海空一体の作戦思想は、日本では育っておらず、むしろ陸軍と海軍の対立の歴史が繰り返された。加えて陸軍は長州、海軍は薩摩という藩閥思想を払拭するのに時間がとられた。
もし桂太郎が英国に留学していたら、メッケルの来日はなかったろう。明治海軍は英国海軍をお手本にしたから、陸軍も英国陸軍の兵制をとり入れ、少なくとも陸海軍の不一致はなかった筈である。
メッケルの日本滞在は三年間。ドイツに帰国して陸軍少将に昇進した後に退役している。
陸軍大学教官当時、関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣図を見せられ、日本の軍人から「どちらが勝ったと思われますか?」と質問された際、「この戦いは西軍の勝ちである」と答えたという。石田三成が勝って、徳川家康が負けたと布陣図から判定している。
しかし「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。日露戦争以降、日本陸軍はますますドイツに傾斜し、日英同盟があったものの英米と対立を深めた。メッケルの来日は功罪あい半ばしたと言うのが私の見方である。
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