この頃、時々「老境」に至る。社会への関心が「ふっ」となくなるのである。すべて「どうでもいいこと」になり、「書く」しか能がない人が書くテーマを失い、途方にくれるのだ。老いるとはこのことかと、密かに恐れおののいている。
「ヒッキー」、引きこもりを2年も続けている。車を運転していると、サザンの「涙のキッス」が聞こえてくる。オーディオが勝手に「よく聴く歌」をデータから選ぶのだ。勝手にシンドバッドと思うが、小生はなぜ人を感動させる歌、詩が創れないのだろうか。
論理の左脳ばっかりで、感性の右脳が足りないのか。
♪涙のキッス もう一度
誰よりも愛している
最後のキッス もう一度だけでも
君を抱いていたい
小生がひっくり返っても、こんな言葉は出てこないのである。同じ場面では、小生は黙って抱くだけで、それでは詩にはなりはしない。せいぜい「最後の一発、やらせろやい、俺はお前を忘れないぜ、今度の男とはうまくやりなよ」で、これでは詩どころではなく、修羅場である。美しくない。週刊新潮の「黒い報告書」だ。
詩人は時代や人間の本質をくっきりと切り抜いて見せる。だから永遠に言葉は残る。小生の言葉はせいぜいが今日一日の寿命だ。ブンヤの記事とはインクの匂いがしている間の命と夏彦翁は言ったが、そういうことなのかもしれない。詩人にはなれないのだ。
しかし、詩人は概ね社会人、あるいは家庭人として落第で、以下は「啄木の痛恨事」としてメモしたものである。読んでいただければ幸いだ。
夏彦翁曰く、
<啄木はウソつきで、二十七で死ぬまで生涯につくウソを全部ついてしまった。「七とこ借り」といって借りられる人からはみな借りて返さなかった。晩年朝日新聞の校正係に雇われて経済的に小康を得たのに私娼を買って、持病の肺病を重くしてやがて死ぬのである>(「昭和恋々」)
これではあんまりだ、啄木だって、いいところのひとつぐらいはあるだろう、とウィキを覗いてみた。
<1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記す。『スバル』創刊、発行名義人になる。就職活動が実り、3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となる。4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。
ローマ字の記述全文が翻字され公刊されたのは、啄木死後70年近くを経た1970年代の全集刊行時からである。それまで一部が伏せられていたのは、浅草に通い娼妓と遊んだ件が赤裸々に描写されていたためである。
彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困であったと、金田一京助の子息である金田一春彦は語っている。
ちなみに金田一京助は啄木のために家財を売って用立てていたため、当時の春彦はその様子をみて幼心に石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか?と疑ったことがある>
おまけがあった。
<啄木は亡くなる前に妻・節子に日記を燃やすように命じたが、節子は「愛着から燃やす事ができませんでした」と日記を金田一京助に託した>
やばい日記や写真は自分で処分しないと死後に恥をさらすことになる。啄木痛恨の失敗だ。70年後に機密指定解除で公開されても、言い訳はできやしない。
♪東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる(一握の砂)
蟹ではなく洲崎遊郭の娼妓と戯れたのだ。以下はその歌のひとつ。
♪寢入りたる女の身をば今一度 思へば夏の夜は白みけり(女郎買の歌)
啄木の本名は石川一(はじめ)だが、この短歌は偽名(近藤元)で発表している。多少は恥じたのだろう。
立派な作品や成果を残した人でもスキャンダルの一つや二つは免れない。ましてや凡人なら醜聞まみれだろうが、名もない人の醜聞なんて誰も興味がないから非難を免れているだけで、啄木を責めるのは酷だろう。
夏彦翁はこう結んでいる。
<金田一と啄木の仲は金田一が結婚してもなお続いた。新居に来ては借金して帰った。決して返らぬ金だから新婦は啄木を疫病神のように嫌った。金田一は悲しんだ。
私は真の友情というものはないと思うものだが、ここにはそれに近いものがある>
ああ、感動を与えるような文を遺したいものである。飯のタネとしてブンヤになったが、一行でもいいから後世の人から「平井のこの一文は珠玉だね」と言われるものを書きたいものだ。道まだ遥か。
♪忸怩たる 我が半生を 振り返る 不可はなくとも 老境の悔い
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
4344 老境あるいは「啄木の痛恨事」 平井修一
平井修一
コメント