鳩山首相の東アジア共同体構想は吟味してかかる必要がある。アジア諸国に対する日本の経済援助の歴史は戦後賠償から始まり、政府開発援助のODAになっていったが、政府と商社の癒着疑惑の歴史でもある。また復興支援の美名の下で、相手国の為政者に資金が流れ、数々の汚職が生まれている。
フィリピン、インドネシアなどの東南アジア諸国に対する戦後賠償の歴史を振り返ると、国民の血税→賠償→ダム工事などに日本企業が進出という構図の中で、日本の三井、三菱、住友といった商社が深くかかわった。
戦後賠償が終わるとODA(政府開発援助:Official Development Assistance)という発展途上国に対する有償、無償の資金などの援助が活発化した。日本が二国間援助の累積総額で一番援助している国は中国。2007年度末までで、円借款:約3兆2079億円、無償資金協力:約1472億円、技術協力:約1505億円。さらに2007年度までに日本は中国に多国間援助と合わせて約6兆円のODAを行っている。
中国は敗戦国・日本に対して賠償請求権を放棄した歴史がある。これは日本国内では、あまり知られていない。中国に対するODAは、ある種の戦後賠償だとみていい。
このようなアジア諸国に対する膨大なODA援助は、日本が驚異の経済復興を果たして世界第二の経済大国になったことによって順調に進められてきた。このことは1947年の欧州復興計画(マーシャル・プラン)で、アメリカの支援によってヨーロッパが目覚しい復興を果たしたことと対比される。
表面的には日本が行ってきた経済援助は、アジア諸国に歓迎され、一定の効果をあげてきたが、裏面では戦後賠償にしろODA援助にしても、負のイメージがつきまとっている。
戦後賠償に積極的に取り組んだのは岸信介首相であった。その発足時には、国民の血税によって支払った賠償金や援助資金が、欧米諸国による復興工事で、そのまま欧米諸国を利することになってはいけないというナショナリズム的な発想があったという。日本の業界がアジア諸国の復興計画にかかわり、いわば投じた資金が日本に還流する仕組みが同時進行で進められたといっていい。
たとえば南ベトナムのダニム・ダム(総発電量16万キロワット)は日本工営(久保田豊社長)の設計工事。1957年、岸首相は南ベトナム訪問、賠償金の支払いに調印している。ダニム・ダムの建設には、日本工営のほか、三菱、東芝、鹿島、間などの企業が参画した。あまり知られていないが、日本工営はミャンマー、インドネシア、韓国でもダムを造ってきている。岸首相と久保田社長は戦前の満州国時代からの仲である。
岸首相とよかったインドネシアのスカルノ大統領やフィリピンのマルコス大統領が失脚した後は、自民党の渡辺美智雄副総理が東南アジア諸国からもっとも信頼を得た政治家となった。ODA援助を背景にしてインドネシア、フィリピン、マレーシアなど各国との交流を深めた。アキノ・フィリピン大統領との信頼関係はよく知られるところである。
しかし膨大な日本の援助が、そのままインドネシアやフィリピンの経済発展に寄与したのであろうか。シンガポールの奇蹟的な経済発展に較べると問題が残る。大多数のインドネシアやフィリピンの民衆は貧困のまま取り残されている。
1974年1月に田中角栄首相はタイを訪問している。学生たちによるはげしい反日運動が起こった。「札ビラで人の頬をたたくような行為、何から何まで売り込む、タイが乗っ取られるのではないか。」という批判である。
田中首相はインドネシアのジャカルタを訪問している。反日暴動で日本大使館に投石、日の丸が引きずりおろされる事件が発生している。インドネシア軍が出動して暴動を鎮圧する騒ぎとなった。北京では朝野をあげて歓迎された田中首相だが、東南アジアでは別のアジアの顔に直面した。
これは田中首相のせいではない。むしろタイやインドネシアの為政者の責任に帰せられるが、それだけ、これらの諸国のリーダーが民生を正しく導いてこなかったことでもある。日本の経済援助が一部の為政者を利しているという民衆の反発が根底にある。
これらの歴史を知らずして、やみくもに東アジア共同体構想を唱えることには危うさを覚える。机上の論法と言わざるを得ない。
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