小沢一郎氏は自分の腹をみせない。そこから新しい”闇将軍”の小沢神話が生まれる。
本棚を整理していたら伊藤昌哉氏の「宰相盗り」(1986年 PHP研究所刊)が出てきた。伊藤氏は東大法学部卒、西日本新聞社政治部から池田勇人氏の秘書になった。(1958)。池田内閣が誕生して首相首席秘書官として登場、私が住む東京・江古田の共同通信寮の近くに住んでいたこともあって、朝回りの車をとるとよく寄って伊藤氏を拾って首相官邸に送ったものである。
車中で伊藤氏の話を聞く下心があったのは言うまでもない。
伊藤氏は大正6年の生まれ。15歳も年上の先輩政治記者だったから聞く話は面白かった。面白いというのは徹頭徹尾、党内情勢の話だからである。政策めいた話は無かった。小泉首相が「政策より政局が好き」といったが、伊藤氏も政局以外に関心がなかった。
池田内閣が成立した頃の政治情勢を説明しておく必要がある。池田氏は岸派の協力で政権を獲得している。岸氏はトタで弟の佐藤栄作氏に政権を譲りたかったのは言うまでない。だが大磯の吉田茂氏の意向に従って、つなぎとして池田政権に力をかした事情がある。
岸派を担当していた私からみれば、池田は一時預けの短期政権。岸派が叛旗を翻せば倒れる政権基盤が弱いものとしてか映らない。それを、どう凌ぐか?伊藤氏に近づいた下心は、そんなところにあった。池田といえば「貧乏人は麦飯を食え」と言った荒っぽい政治家。問題発言がすぐ飛び出すと思っていた。
だが黒ぶち眼鏡から鼈甲色の柔らかいふちに眼鏡を代えた池田首相は、低姿勢内閣を標榜して国民支持を獲得している。池田のイメージ・チェンジを図ったのは、”お父ちゃん”こと大平官房長官と”ぶーちゃん”こと伊藤首席秘書官の二人であった。
この時に伊藤氏は「池田がもっとも信頼するのは、弟分の前尾繁三郎」と打ち明けてくれた。無役の前尾氏のことは誰も知らない。「岸派は分裂するよ」とも言った。たしかに岸派は福田派と藤山派、川島派に三分裂していった。藤山派、川島派は池田支持を鮮明にしている。最大の競合相手は佐藤派となった。その佐藤派も田中角栄氏は大平氏と結んで池田内閣に協力的である。
複雑な党内力学を説く時の伊藤氏の表情は生き生きとしている。
伊藤氏の「宰相盗り」に戻る。伊藤氏は「池田勇人 その生と死」「自民党戦後史」の著書がある。私たちが窺い知ることが出来なかった政治のドロドロした裏事情を、かなり詳細に描いてみせた。だが「宰相盗り」には前二著の様な迫力がない。パラパラと読み飛ばして、そのまま本棚の奥にしまい忘れていた。
だが、あらためて読んでみると、今の小沢氏の手法が、田中角栄氏と同じ軌跡を辿っていることに気がつく。たとえば、田中氏は幹事長時代に公認、応援など手塩にかけて育てた一年生議員を結集して田中軍団の基礎を固めている。
盟友といわれた大平氏にも気を許していない。伊藤氏は大平氏の政治顧問になっていたが、田中離れを勧めて福田赳夫氏との提携を説いていた。自ら福田氏の懐に飛び込んで”大福提携”に走った。大平は自分の言いなりになると思っていた田中氏は、大平氏とあらためて提携する必要に迫られた。
その意味で福田氏が約束を守って大平氏に政権を譲れば、日本政治のその後の展開はかなり違ったものになったと伊藤氏はみている。
政治には”政略”がつきものと伊藤氏はいう。田中氏のすべての政略は選挙に勝つ数の論理から発している。喧嘩する時の田中氏はいつも強いと伊藤氏は驚嘆している。勝つためには田中氏は善悪を越えて何でもやる。大平氏や福田氏には、それがない。いずれ大平氏は田中氏に呑み込まれてしまうと、伊藤氏危惧した。
伊藤氏が生きていれば、小沢氏こそが田中角栄の申し子というであろう。だが、それ故に日本式のタマーニー・ホール(TAMMANY HALL)が現れて、ここが是正されないかぎり日本保守政治の前進はないと言い切った。田中氏の力を押さえるために、弱い者同士の大平・福田連携に走った伊藤氏の論理である。
しかし現実には大福連携は二年で破れ、大平政権が田中氏の支援で作られた。大平氏が急逝した後は、暗愚の帝王といわれた鈴木善幸氏が首相になった。「宰相盗り」をパラパラとめくって本棚にしまったごとく、一読した後は、また本棚の奥に入れた。残ったのは田中角栄氏と小沢一郎氏のあまりにも似通った手法である。
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4420 田中角栄氏と小沢一郎氏 古沢襄

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