鳩山政権が発足して以来、鳩山首相の〃アジア志向〃がアメリカ離れをはかっているとして、アメリカの神経を逆撫でしている。
鳩山首相は「過剰な対米依存」を正すとともに、アメリカと「対等な関係」を結ぶと説いてきた。もっとも、いまだもって何が「過剰な対米依存」なのか、日米関係のどこが対等でなかったのか、説明がないのでよく分からない。
鳩山外交は九月にニューヨークで中国の胡錦涛主席と会談することから、始まった。
この時に、鳩山首相は「東アジア共同体」をつくりたいと提唱した。いったいどの国々が構成国となるのか、はっきりしなかったが、アメリカを加えるつもりがなかったので、アメリカの鳩山政権に対する不信感が募った。
もっとも、この「東アジア共同体」構想は思いつき以上のものではないので、立ち消えになるものと思われる。鳩山内閣は勇み足が多すぎる。
きっと、由紀夫お坊ちゃまはアメリカに肘鉄をくわせているつもりだろうが、ひ弱な腕だから、結局はアメリカのいうことをきくようになるにちがいない。
さて、私たちはアジアといえば、日本がアジアの一国だと思って、親近感が湧く。
そうといっても、アジアとはいったい何なのだろうか?
読者は「アジアは一つ」という言葉を知っていられよう。明治の美術界の巨人だった、岡倉天心が西洋と対比して述べた言葉である。
ところが、アジアという言葉の語源は古代ギリシアに遡る。ギリシア人がペルシア(今日のイラン)より東に拡がる地を、すべて十把一絡げにして呼んだ言葉だった。
アジアは広大であり、同じキリスト教文化によって結ばれているヨーロッパと違って、異質である。それぞれの民族の文化のあいだに、共通点が少ない。
日本と隣国の誼(よしみ)がある中国をとっても、大きく異なっている。
言葉をとっても、ヨーロッパ諸語がラテン語をもとにして、同じ文法を分かち合っているのに対して、日本語と中国語は文法も発想もまったく異なっている。
日中はよく「同文同種」といわれるが、日本料理と中華料理をとっても、両国の食文化は際立って異っている。
日本全国の街角に、来々軒とか、万来軒といった中華料理店が多い。.叉焼(チャーシュウ)、酢豚、シュウマイ、八宝菜、芙(フー)蓉(ヨー)蟹(ハイ)‥‥と想像するだけで、唾液腺を刺激する。
中国料理は人類の食事のなかで、メニューの幅がもっとも広い。よく「食在広州」――食は広州にありといわれるが、まさに「食在中国」といってよい。ツバメの巣から、鶏の舌、鱶(ふか)のヒレ、猿、蛇、犬猫まで食材として、舌鼓をうつ。
私は中国をはじめて訪れたのが、鄧小平時代前の華国鋒主席時代だった。全員が粗末な人民服を着て、女性は一人として化粧していなかった。
人民解放軍の李達副総参謀長が人民大会堂で、私のために晩餐会を催してくれた。料理がつぎつぎと供された。
李副総参謀長は、大人の風格があった。私の左側に座って、新しい皿が運ばれてくるたびに、長い箸を使って御馳走をよそってくれた。
私は豪華な料理が食卓を埋めてゆくのを見ながら、中国の共産革命といえば、質実と平等の理想を推し進めたはずなのに、やはり中国の四千年の歴史が中国人の鋳型をつくっているのだと、あらためて感心した。
その後も、しばしば招かれて、愚妻とともに中国全土を旅した。部隊や主要な都市を訪れると、盛大な歓迎宴を催してくれた。
漢族ほど食に執着した民族は、他にあるまい。食材について他民族と違って、宗教的、あるいは社会的なタブーがまったく存在していないのも、特徴だ。
中国の史書にはその国柄から、頻繁に食物が登場する。周といえば、紀元前1122年から紀元前256年にかけて栄えたが、赧(かん)王の宮殿には四千人が働いていた。そのうち、じつに2171人が、料理の調理人と酒番だったと、記録されている。
『史記』と『左伝』によれば、七世紀後半の楚の成王が皇太子を廃して、次男を後継ぎとして擁立しようと計ったところ、皇太子が事前に父王の動きを察知して、兵を挙(あ)げて王宮を囲み、父王を捕えた。父王を弑(し)いようとしたところ、成王は今生の最後の願いとして、熊掌の料理を食べたいと、嘆願した。
熊のテノヒラは中華料理のなかでも、絶品とされている。皇太子はそれを拒んで、父王の生命を奪ったという。
私は香港を訪れて中華料理店で接待された時に、店のチーフコックと話したいと頼んで、熊のテノヒラ料理をつくるのに、どのくらいの時間を必要とするか、質問した。
私の勘が当たった。答は三日だった。きっと、成王はその間に逃げるか、救けがくることを目論んだのにちがいない。
中国は、素晴らしい政治・芸術・生活・食文化を創造して、人類に貢献してきた。しかし、しばしば食への執着が悪い形をとって現われる。
台湾、チベット、新疆、内モンゴル(モンゴル側の呼称では南モンゴル)は、中国――漢族の国有の領土の一部ではない。周辺地域が、悪食(あくじき)の対象となる。
中国には、長いあいだにわたって国の名前がなかった。天子である中国の皇帝が全世界を支配していると、みなしたからである。
隋、唐、元、明、清などは、みなすべて王朝の名である。ところが19世紀に入って、イギリスと阿片戦争を戦って敗れ、国際条約を結ぶために、王朝名をはじめて国名として用いた。第二次阿片戦争、フランスとの戦争にも負けたために、清が国名となった。
中国の周辺諸国は、日本を除いてすべて中国に入貢する屈国だった。これらの諸国の王は中国皇帝から冊封――任命を受けた。中国を頂点とする華夷秩序である。
日本は聖徳太子が西暦600年に隋の皇帝に、「日出する処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という書簡を送って、独立を宣明した。日本は中国を取り巻く国のなかで、変種だった。隋の皇帝は聖徳太子の書簡を読んで、一日中、機嫌を害していたという。
色彩感覚をとっても、アジアのほかの諸国はみな極彩色を用いるが、日本は落着いた中間色を好んできた。韓流ドラマにでてくる派手な配色をみるたびに、日本とのあいだに何と大きな距離があるのか、感じさせられる。
日本人は公徳心を尊んで、和を重じ、進んで法律を守るが、これはアジアの民よりも、ヨーロッパに近い。
日本がアジアとお付き合いをするためには、アジアのことをもっと学ばねばならない。
なぜ、日本と他のアジアの民族は、このように異なっているのだろうか。日本はアジアのなかで、独特な国を形成している。縄文時代にまで遡って、日本の歴史を学ばねばなるまい。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
4438 中華料理考 加瀬英明

コメント